この追悼サイトは、私たちの愛する人 渡辺 淳一(小説家)さんを記念して作成されました。
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本名:渡辺 淳一(わたなべ じゅんいち)
享年80歳 、誕生日 1933年10月24日、命日 2014年4月30日
北海道空知郡上砂川町[1]朝陽台出身。1958年札幌医科大学医学部卒業[1]。同講師。医学博士。初め医療現場を舞台とした社会派小説や伝記小説、恋愛小説を数多く手がけて人気を博した。その後、『化身』『うたかた』『失楽園』『愛の流刑地』など濃密な性描写の恋愛小説で、1980年代から90年代にかけて耳目を集めた。エッセイも多く『鈍感力』が流行語になった。
来歴[編集]父の鉄次郎(1907年生)は数学教諭で、母のミドリ(1907年生)は歌志内市最大の商家渡辺家の末娘である。渡辺は母方の姓で、父が札幌工業高等学校教諭となったことをきっかけに札幌市に定住した。本籍地を札幌市中央区南7条西22丁目に置いた。
札幌第一中学校在学中の1947年に、国語教諭の中山周三の影響で文学に関心を持ち始める。在学中に学制改革により旧制中学が廃止され、新制札幌南高校へ移行する。札幌高等女学校から転入した加清純子[2]と同級生となる[1]。札幌南高校卒業後、北海道大学理類[1]で学び教養課程修了後に札幌医科大学医学部[1]へ進む。河邨文一郎が部長を務める医大文芸部に所属する。
1964年札幌医科大学助手、1966年同大医学部整形外科教室講師。医業と並行して、「くりま」に執筆を続ける。1965年「死化粧」で新潮同人雑誌賞を受賞[1]。同作は芥川賞候補にもなり[1]、文名を知られる。1967年『霙』が第57回直木賞候補[1]、1968年に『訪れ』が第58回芥川賞候補となる[1]。札幌医科大学の和田寿郎教授による和田心臓移植事件を題材にした『小説・心臓移植』(1969年3月。後に『白い宴』と改題、角川文庫)を発表し、札幌医科大学講師を辞職する[1]。
1970年に37歳で総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞し[1]、本格的に作家活動を開始した。1980年『遠き落日』『長崎ロシア遊女館』で第14回吉川英治文学賞[1]、1986年『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』で文藝春秋読者賞[1]、第51回菊池寛賞[1]、それぞれを授賞する。直木賞、吉川英治文学賞、中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞選考委員などを歴任した。2003年に紫綬褒章[4]、を授章する。
作品・作風[編集]主題は、評伝の『花埋み』『女優』『遠き落日』など、医療の『白い宴』『無影燈』『麻酔』など、恋愛の『化身』『失楽園』『愛の流刑地』など三つに大別されるが、各ジャンルを融合したものもある。初期は医療をテーマとした社会派的な作品が多い。伝記は時期を問わず書き続け、医療、身体、恋愛論、身辺雑記など広くエッセイも多く手がける。経済記事が主体の 日本経済新聞の朝刊に連載された『化身』『失楽園』『愛の流刑地』の三作は大胆な性的なシーンも多く話題となり、映画やテレビドラマなど展開された。1997年の「新語・流行語大賞」に『失楽園』が選出されている[1]。[8]
受賞歴[編集]

渡辺淳一文学館 札幌市中央区南12条西6丁目414
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本名:渡辺 淳一(わたなべ じゅんいち)
戒名:愛楽院釈淳信
墓地:築地本願寺 和田堀廟所(マップ)〒168-0064 東京都杉並区永福1丁目8−1
渡辺淳一文学館: (〒064-0912 北海道札幌市中央区南12条西6丁目414)
墓地:築地本願寺 和田堀廟所(マップ)〒168-0064 東京都杉並区永福1丁目8−1
渡辺淳一文学館: (〒064-0912 北海道札幌市中央区南12条西6丁目414)
享年80歳 、誕生日 1933年10月24日、命日 2014年4月30日
北海道空知郡上砂川町[1]朝陽台出身。1958年札幌医科大学医学部卒業[1]。同講師。医学博士。初め医療現場を舞台とした社会派小説や伝記小説、恋愛小説を数多く手がけて人気を博した。その後、『化身』『うたかた』『失楽園』『愛の流刑地』など濃密な性描写の恋愛小説で、1980年代から90年代にかけて耳目を集めた。エッセイも多く『鈍感力』が流行語になった。
来歴[編集]父の鉄次郎(1907年生)は数学教諭で、母のミドリ(1907年生)は歌志内市最大の商家渡辺家の末娘である。渡辺は母方の姓で、父が札幌工業高等学校教諭となったことをきっかけに札幌市に定住した。本籍地を札幌市中央区南7条西22丁目に置いた。
札幌第一中学校在学中の1947年に、国語教諭の中山周三の影響で文学に関心を持ち始める。在学中に学制改革により旧制中学が廃止され、新制札幌南高校へ移行する。札幌高等女学校から転入した加清純子[2]と同級生となる[1]。札幌南高校卒業後、北海道大学理類[1]で学び教養課程修了後に札幌医科大学医学部[1]へ進む。河邨文一郎が部長を務める医大文芸部に所属する。
1964年札幌医科大学助手、1966年同大医学部整形外科教室講師。医業と並行して、「くりま」に執筆を続ける。1965年「死化粧」で新潮同人雑誌賞を受賞[1]。同作は芥川賞候補にもなり[1]、文名を知られる。1967年『霙』が第57回直木賞候補[1]、1968年に『訪れ』が第58回芥川賞候補となる[1]。札幌医科大学の和田寿郎教授による和田心臓移植事件を題材にした『小説・心臓移植』(1969年3月。後に『白い宴』と改題、角川文庫)を発表し、札幌医科大学講師を辞職する[1]。
1970年に37歳で総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞し[1]、本格的に作家活動を開始した。1980年『遠き落日』『長崎ロシア遊女館』で第14回吉川英治文学賞[1]、1986年『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』で文藝春秋読者賞[1]、第51回菊池寛賞[1]、それぞれを授賞する。直木賞、吉川英治文学賞、中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞選考委員などを歴任した。2003年に紫綬褒章[4]、を授章する。
作品・作風[編集]主題は、評伝の『花埋み』『女優』『遠き落日』など、医療の『白い宴』『無影燈』『麻酔』など、恋愛の『化身』『失楽園』『愛の流刑地』など三つに大別されるが、各ジャンルを融合したものもある。初期は医療をテーマとした社会派的な作品が多い。伝記は時期を問わず書き続け、医療、身体、恋愛論、身辺雑記など広くエッセイも多く手がける。経済記事が主体の 日本経済新聞の朝刊に連載された『化身』『失楽園』『愛の流刑地』の三作は大胆な性的なシーンも多く話題となり、映画やテレビドラマなど展開された。1997年の「新語・流行語大賞」に『失楽園』が選出されている[1]。[8]
受賞歴[編集]
- 1965年(昭和40年) 第12回新潮同人雑誌賞 - 『死化粧』[1]
- 1970年(昭和45年) 第63回直木賞 - 『光と影』[1]
- 1980年(昭和55年) 第14回吉川英治文学賞- 『遠き落日』『長崎ロシア遊女館』[1]
- 1986年(昭和61年) 第48回文藝春秋読者賞 - 『静寂の声 ― 乃木希典夫人の生涯』[1]
- 2001年(平成13年) アイスランド隼勲章騎士章[17]
- 2003年(平成15年) 紫綬褒章[1]
- 2003年(平成15年) 菊池寛賞[1]
- 2011年(平成23年) 第72回文藝春秋読者賞 - 『天上紅蓮』
- 『ダブル・ハート』文藝春秋 1969 「死化粧」角川文庫、文春文庫、朝日文庫
- 『北方領海』学習研究社 1969
- 『プレパラートの翳』講談社 1969 「自殺のすすめ」[角川文庫、文春文庫、「病める岸」講談社文庫
- 『小説心臓移植』文藝春秋(ポケット文春)1969
- 『二つの性』廣済堂出版 1970 「酔いどれ天使」角川文庫
- 『ガラスの結晶』講談社 1970 「秋の終りの旅」講談社文庫
- 『母胎流転』角川書店 1971
- 『リラ冷えの街』河出書房新社 1971 のち新潮文庫
- 『恐怖はゆるやかに』角川書店 1971 のち文庫、中公文庫
- 『富士に射つ』文藝春秋 1972 のち文庫
- 『パリ行最終便』河出書房新社 1972 のち新潮文庫
- 『無影燈』毎日新聞社 1972 のち角川文庫、文春文庫、集英社文庫
- 『空白の実験室』青娥書房 1972 のち中公文庫
- 『白き手の報復』毎日新聞社 1972 のち中公文庫、新潮文庫、ポプラ文庫
- 『十五歳の失踪』講談社 1972
- 『阿寒に果つ』中央公論社 1973 のち文庫、角川文庫、扶桑社文庫、ポプラ文庫、講談社文庫
- 『雪舞』河出書房新社 1973 のち文春文庫
- 『野わけ』集英社 1974 のち文春文庫、集英社文庫、角川文庫
- 『北都物語』河出書房新社 1974 のち新潮文庫
- 『氷紋』講談社 1974 のち文庫
- 『白き狩人』祥伝社(ノン・ノベル)1974 のち集英社文庫
- 『白き旅立ち』新潮社 1975 のち文庫
- 『夜の出帆』文藝春秋 1976 のち文庫、角川文庫
- 『白い宴』角川文庫 1976
- 『失われた椅子』文春文庫 1976 のち角川文庫
- 『廃礦にて』角川文庫 1976 のち中公文庫
- 『まひる野』新潮社 1977 のち文庫
- 『神々の夕映え』講談社 1978 のち文庫
- 『ふたりの余白』中央公論社 1978 のち文庫、集英社文庫
- 『峰の記憶』文藝春秋 1978 のち文庫
- 『優しさと哀しさと』集英社文庫 1978
- 『くれなゐ』集英社 1979 のち文庫、文春文庫
- 『白夜』全5巻 中央公論社 1980-88(自伝小説) のち文庫、新潮文庫、嶋中文庫、ポプラ文庫
- 『流氷への旅』集英社 1980 のち文庫、角川文庫
- 『麗しき白骨』毎日新聞社 1981 のち集英社文庫
- 『七つの恋の物語』新潮社 1981 のち文庫
- 『桐に赤い花が咲く』集英社文庫 1981 のち新潮文庫
- 『化粧』朝日新聞社 1982 のち新潮文庫、講談社文庫
- 『雲の階段』講談社 1982 のち文庫、角川文庫
- 『ひとひらの雪』文藝春秋 1983 のち文庫、角川文庫、集英社文庫
- 『愛のごとく』新潮社 1984 のち文庫
- 『風の岬』毎日新聞社 1985 のち角川文庫
- 『長く暑い夏の一日』講談社 1985 のち文庫
- 『化身』集英社 1986 のち文庫
- 『別れぬ理由』新潮社 1987 のち文庫、中公文庫
- 『浮島』角川書店 1988 のち文庫、文春文庫
- 『桜の樹の下で』朝日新聞社 1989 のち新潮文庫、朝日文庫
- 『うたかた』講談社 1990 のち文庫、集英社文庫
- 『風の噂』新潮社 1990 のち講談社文庫、新潮文庫
- 『小指のいたみ』廣済堂文庫 1990 のち文春文庫
- 『影絵 ある少年の愛と性の物語』中央公論社 1990 のち文庫、扶桑社文庫
- 『メトレス愛人』文藝春秋 1991 のち文庫
- 『何処へ』新潮社 1992 のち文庫、講談社文庫
- 『麻酔』朝日新聞社 1993 のち講談社文庫、朝日文芸文庫
- 『夜に忍びこむもの』集英社 1994 のち文庫、文春文庫
- 『ヴェジタブル・マン(植物人間)』新潮文庫 1996
- 『失楽園』講談社 1997 のち文庫、角川文庫
- 『かりそめ』新潮社 1999 のち文庫
- 『泪壺』講談社 2001 のち文庫
- 『シャトウルージュ』文藝春秋 2001 のち文庫
- 『エ・アロール それがどうしたの』角川書店 2003 のち文庫
- 『幻覚』中央公論新社 2004 のち文庫
- 『愛の流刑地』幻冬舎 2006 のち文庫
- 『あじさい日記』講談社 2007 のち文庫
- 『薔薇連想』朝日文庫、2010
- 『ある心中の失敗』朝日文庫、2010
- 『午後の別れ』朝日文庫、2010
- 『項の貌』朝日文庫 2010
- 『孤舟』集英社 2010
- 『渡辺淳一メディカル・セレクション1 白き手の哀しみ』中公文庫、2012
- 『愛ふたたび』幻冬舎 2013
- 『血』(テレビドラマ脚本)[19]
- 『花埋み』 ISBN 4-04-130714-7、ISBN 4-04-130715-5(角川文庫)
- 『遠き落日』 ISBN 4-10-117601-9(新潮文庫)
- 『リラ冷えの街』
- 『ひとひらの雪』(R-15指定)
- 『桜の樹の下で』(R-15指定)
- 『化身』(R-15指定)
- 『流氷の原』
- 『無影燈』(『白い影』)
- 『失楽園』(映画版のみR-15指定)
- 『エ・アロール それがどうしたの』
- 『氷紋』
- 『北都物語』
- 『野わけ』
- 『ダブル・ハート』(『冬の陽』)
- 『まひる野』
- 『くれなゐ』
- 『麻酔』
- 『阿寒に果つ』
- 『雪舞』(『雪舞い』)
- 『化粧』
- 『別れぬ理由』(映画版のみR-15指定)
- 『愛の流刑地』(映画版のみR-15指定)
- 『メトレス・愛人』(2000年)
- 『麗しき白骨』(『白き抗争』)(1983年、NHK土曜ドラマ)
- 『空白の実験室』(1986年、火曜サスペンス劇場にて)
- 『長く暑い夏の一日』(1988年、火曜サスペンス劇場にて)
- 『雲の階段』(2006年、韓国ドラマ・2013年、水曜ドラマ)
- 『マリッジリング』(2007年、R-15指定)
- 『きみに届く声』(『少女の死ぬ時』)
- 『泪壺』(2008年、R-15指定) etc.
渡辺淳一文学館 札幌市中央区南12条西6丁目414
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想いで
プラチナ世代
渡辺淳一がエッセイ『熟年革命』で用いた造語であり、元気でアクティブな高齢者を指す言葉として使用されている。シルバーというほど地味でもなく、色あせず長年輝き続けるという意味で使われる。 長いあいだ人生を生きてきて、その体験を基に心に深い輝きを秘めている人々を、このように呼びたいと思う。他人に迷惑さえかけなければ自分らしい生き方に徹して一向にかまいません。
...定年というものを、新しい生活に船出する喜ばしきものと考えたいものです。窮屈な社会倫理、会社倫理などから一気に解放されるのです。これほどの自由が得られるのに、憂えることなどありません。 遊ぶ、学ぶ、付き合うことで新しい楽しみが拓けるとともに、家庭内でも新しい発見に気づきます。 好奇心いっぱいに前向きに生きて行くことです。今度は何をやってやろうと面白がる気持ちが大切です。「よし、この定年を楽しむぞ」という面白がる気持ちさえ持てば、充実した第二の人生を送ることが約束されます....
...精神を逞しく鈍感にすること。 プラチナ世代はとくに、この鈍感力を供えることが必要です。 いい意味で鈍い人になる、そして、いつも楽しいこと、面白いこと、自分の好きなことを追いかける。これが全身の血のめぐりを良くし、いつまでも心と体の健康を保つ、秘訣であるのです。
「おじさん、友達いる?」...「自分の軸」がないままで、サラリーマン社会というシステムの中を生きる限りにおいて、真の仲間は見つからないでしょう。「自分の軸」があってこそ、同じような価値観や目標を持っている人と共感することができ、そこからはじめて真の仲間へと向かっていく関係になれるからです。