承継
この追悼サイトは、 畠山 一清(株式会社荏原 創業者)さまのために作成されました。

享年89歳 、誕生日 1881年12月28日、命日 1971年11月17日
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畠山 一清(はたけやま いっせい、1881年明治14年)12月28日 - 1971年昭和46年)11月17日[1])は、日本実業家機械工学者。株式会社荏原製作所の創立者[2]石川県金沢市出身。機械工学者・井口在屋の「渦巻ポンプに関する理論」をもとに「うずまきポンプ」を発明した

井口博士との出会い
大学は東京帝国大学に進学し機械工学を専攻した。専攻を選んだ経緯については「機械に格別な関心を持っていたわけではない。ただ、機械出身なら都市の研究所か何かに就職できるから、いつも都会の空気が吸えることになる。それだけの理由で機械工学科に決めただけのことだ。」と後年語っているが、義兄に学費の支援をしてもらっていたため、その恩返しも込めて大学時代は精一杯勉強に励んだ。
そして、大学時代に恩師となる同じ石川出身の井口在屋博士に出会い、後に井口博士の理論を事業化するためにゐのくち式機械事務所を立ち上げることになる。井口博士は当時、東京帝国大学工学部の教授であり水力学ならびに応用力学の権威として知られており、ポンプについても研究していた。ポンプの原理そのものは、古代ギリシャの時代からすでに知られており、その後、ヨーロッパで灌漑用の設備技術として発展していた。 
 1881年(明治14年)、金沢能登守護大名能登畠山氏の血筋を引く家系に生まれる。東京帝国大学機械工学科を卒業後、1912年に恩師の井口在屋と共同でゐのくち式機械事務所を創業した。1920年(大正9年)にはポンプ販売の事業を発展させて荏原製作所を設立した。
大正12年(1923年)に起こった関東大震災でも、荏原のポンプは活躍した。当時、東京市の水道は淀橋浄水場1カ所のみであった。水は多摩川上流の羽村から淀橋まで送水されていた。ところが、関東大震災の2年前に大きな地震があり、数カ所が崩壊し、東京市の水道が止まった。一清は、当時人口約200万の東京市民の命を守る水道が、たった一つの水路だけに頼っていることに危機感を持った。地震で断水になれば、火災が起こる。火災の後は悪疫が発生し、さらに治安が悪化する。
一清は市長及び関係者へ予備設備の必要性を説明し、ポンプの寄付も申し入れたので予備ポンプを設置することになった。大正10年(1921年)に、旧神田浄水場の水路を利用して新宿の角筈まで通水し、ポンプで揚水するという計画を立てポンプ8台を据え付けた。それから2年後に、関東大震災が起き、羽村の水路が決壊し、市内の水道は完全に止まってしまった。
一清は数名の技術者を派遣し、2年前に据え付けた予備ポンプを運転し揚水を始めた。その甲斐あって、翌日の午後には通水が始まり、火災の拡大、悪疫の流行を防ぐ事ができた。この迅速な対応は国内外に広く報道され、日本の水道界は高く評価された。         このように荏原は、創業当初から世界中で必要不可欠な社会インフラを提供し、産業とくらしを支え、社会や地球環境の維持、改善に貢献してきた。
荏原は2020年に10年後の2030年度に向けた長期ビジョン「E-Vision2030」を策定した。E-Vision2030の中で荏原が解決・改善していく、5つのマテリアリティ(重要課題)を設定している。その1つに「持続可能な社会づくりへの貢献」を掲げているが、その源流は創業期からあったのだ。そしてそのDNAは、現在も引き継がれている
畠山の発明は渦巻ポンプにとどまらず、発電用車、送風機、水中モーターポンプなど数十種の製品に及ぶ[2]。 
第二次世界大戦後、1946年(昭和21年)7月29日に貴族院議員(勅選議員)となり[3]研究会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで務めた[1]。また後に発明協会の会長を務め、恩賜発明賞の別称「畠山一清賞」に名前を残している。畠山は「即翁」の号を持つ数寄者としても知られており、益田鈍翁らと交流を持った。茶器や能道具など、畠山が収集した数多くの美術品は東京都港区にある畠山記念館に収められている。
参考文献[編集]『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。荏原製作所、会社情報 
   畠山一清「何事も熱意と誠心をもって人に接すれば相手に通じないことはない」
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         畠山一清記念館  東京都港区白金台2-20-12     
             関連する画像の詳細をご覧ください。特別展「畠山記念館の名品」|そうだ 京都、行こう。
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このメッセージは、 2023年9月25日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
渦巻ポンプをはじめ、数十種類もの製品を発明し社会のインフラを提供して産業と暮らしを支えた畠山一青に改めて感謝したいものです。    合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2023年9月25日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
渦巻ポンプをはじめ、数十種類もの製品を発明し社会のインフラを提供して産業と暮らしを支えた畠山一青に改めて感謝したいものです。    合掌
軌跡

(生い立ち)

01生い立ち
畠山一清は1881年(明治14年)石川県金沢市で三男三女の末っ子として生まれる。先祖は室町時代に活躍した能登の国の守護大名である畠山満慶を初代とする能登の国畠山家で、一清はそこから数えて18代目にあたり、もともとは大変裕福な家系であった。

しかし、時代と共に家運が傾き、一清が物心つく頃には大変貧乏だった。あまりに貧乏だったため、高等小学校(現在の小学校高学年)は最寄りの小学校ではなく、義兄が住んでいる佐渡(新潟)へ行き支援してもらった。また中学と高校(共に旧制)は佐渡に学校がなかったため、金沢へ戻り義兄の学費の支援の下卒業した。さらに大学の学費も義兄が支援してくれたことで卒業する事ができた。

子供のころの性格は、後年「君は、さすが殿様の子孫だけある」と知人に言われるほど負けん気が強く、他人に悪口を言われてもまったく気にしない性格だったと語っている。