この追悼サイトは、 蟹江 一太郎(カゴメ創業者、「トマト王」と称される)さまのために作成されました。
享年96歳 、誕生日 1875年2月7日、命日 1971年12月20日
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蟹江 一太郎(かにえ いちたろう、1875年2月7日 - 1971年12月20日[1])は、日本の実業家。カゴメ創業者。「トマト王」とも称される[2]。
元カゴメ社長の蟹江一忠は養子。元カゴメ社長の蟹江嘉信は孫[3]。カゴメ不動産社長の蟹江信孝は孫[4]。
1896年(明治29年)、名古屋にあった歩兵第6連隊に入隊し[6]、3年間の兵役を務め上げた。除隊の折り上官の西山中尉より西洋野菜の栽培を勧められ[1][5]、1899年(明治32年)にトマトなどの西洋野菜の栽培に着手[7]。のちに、西洋野菜を販売するもトマトが全く売れず頭を悩ませたが、欧米では生より加工しソースとして使用することを知り、1903年(明治36年)にトマトソース(現在のトマトピューレ)の製造をはじめた[5][7]。1906年(明治39年)には自宅敷地内に工場を建設し、本格的な生産を開始する[5][7]。
1908年(明治41年)、トマトケチャップやウスターソースの製造を開始[7]。1914年(大正3年)には、成田源太郎、蟹江友太郎との共同出資により愛知トマトソース製造合資会社(現・カゴメ)を設立した[8]。その後、1923年(大正12年)に社長に就任し、1962年(昭和37年)に会長職についた[6]。また、1928年(昭和3年)に村会議員、1939年(昭和14年)から1946年(昭和21年)にかけて愛知県議会議員なども務めた[6][9]。
1964年(昭和39年)、勲五等双光旭日章叙勲受章[10]。
1971年(昭和46年)12月20日に、96歳で逝去[1]。同年、従五位を追贈されたほか[10]、東海市の名誉市民となっている[9]。
青林堂社長を務める蟹江幹彦は曾孫の一人。1982年にカゴメの社長に就任した蟹江英吉とは血縁関係はない。
享年96歳 、誕生日 1875年2月7日、命日 1971年12月20日
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蟹江 一太郎(かにえ いちたろう、1875年2月7日 - 1971年12月20日[1])は、日本の実業家。カゴメ創業者。「トマト王」とも称される[2]。
元カゴメ社長の蟹江一忠は養子。元カゴメ社長の蟹江嘉信は孫[3]。カゴメ不動産社長の蟹江信孝は孫[4]。
略歴
1875年(明治8年)、愛知県知多郡名和村(現・東海市名和町)に農家の長男として出生[1][5]。当時の名前は佐野市太郎[1]。1893年(明治26年)18歳で蟹江家に婿入りしたが[5]、近隣に蟹江市太郎という同姓同名の人物がいたため、名を一太郎に改名した[1]。1896年(明治29年)、名古屋にあった歩兵第6連隊に入隊し[6]、3年間の兵役を務め上げた。除隊の折り上官の西山中尉より西洋野菜の栽培を勧められ[1][5]、1899年(明治32年)にトマトなどの西洋野菜の栽培に着手[7]。のちに、西洋野菜を販売するもトマトが全く売れず頭を悩ませたが、欧米では生より加工しソースとして使用することを知り、1903年(明治36年)にトマトソース(現在のトマトピューレ)の製造をはじめた[5][7]。1906年(明治39年)には自宅敷地内に工場を建設し、本格的な生産を開始する[5][7]。
1908年(明治41年)、トマトケチャップやウスターソースの製造を開始[7]。1914年(大正3年)には、成田源太郎、蟹江友太郎との共同出資により愛知トマトソース製造合資会社(現・カゴメ)を設立した[8]。その後、1923年(大正12年)に社長に就任し、1962年(昭和37年)に会長職についた[6]。また、1928年(昭和3年)に村会議員、1939年(昭和14年)から1946年(昭和21年)にかけて愛知県議会議員なども務めた[6][9]。
1964年(昭和39年)、勲五等双光旭日章叙勲受章[10]。
1971年(昭和46年)12月20日に、96歳で逝去[1]。同年、従五位を追贈されたほか[10]、東海市の名誉市民となっている[9]。
青林堂社長を務める蟹江幹彦は曾孫の一人。1982年にカゴメの社長に就任した蟹江英吉とは血縁関係はない。
これからの農業は
生産ばかりじゃいかん
経営や販売の面も兼ね備えた
新農業経営方式でいくべきだ
生産ばかりじゃいかん
経営や販売の面も兼ね備えた
新農業経営方式でいくべきだ
「この真っ赤に熟れたトマトが食卓に供せられたら、どんなに食事が楽しく、おいしいかしれない。きっと欧米人のように日本人も喜んで食べるときがやってくるはずだ。」
蟹江はトマトの無限の可能性を確信しトマト栽培を始めたのである。当時トマトに日本人はなじみがなく、食べる人は口に入れた瞬間いやな顔つきをする者が多かった。
「これではいかん。生のトマトがだめなら加工して食卓にのぼらせてみよう」
蟹江は、まずトマトの栽培の仕方を教えてもらい、農林省の技師からも聞き出した。必要だと思ったら、その道の権威者に積極的にアタックしたのである。
そして、とうとう自分の手で育てたトマトを加工して、“トマトソース”や“ケチャップ”を開発して世に送り出した。
今でこそ叫ばれているアグリビジネスのスタートである。あの時代の農業をただ生産だけでなく加工から販売面をも取り入れた、農業経営方式を導入・推進したのには驚く。
蟹江は酪農家を一軒一軒、訪ね回ってトマトの試作を依頼した。「とれたものはすべて買い取ります。もし失敗したら補償もしましょう」と言うので、酪農家はみな納得し協力した。蟹江の志に向かって歩む熱心さに感心してしまったというわけである。
カゴメ記念館 愛知県東海市荒尾町東屋敷108 ※注:このサイトは、蟹江一太郎に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
蟹江はトマトの無限の可能性を確信しトマト栽培を始めたのである。当時トマトに日本人はなじみがなく、食べる人は口に入れた瞬間いやな顔つきをする者が多かった。
「これではいかん。生のトマトがだめなら加工して食卓にのぼらせてみよう」
蟹江は、まずトマトの栽培の仕方を教えてもらい、農林省の技師からも聞き出した。必要だと思ったら、その道の権威者に積極的にアタックしたのである。
そして、とうとう自分の手で育てたトマトを加工して、“トマトソース”や“ケチャップ”を開発して世に送り出した。
今でこそ叫ばれているアグリビジネスのスタートである。あの時代の農業をただ生産だけでなく加工から販売面をも取り入れた、農業経営方式を導入・推進したのには驚く。
蟹江は酪農家を一軒一軒、訪ね回ってトマトの試作を依頼した。「とれたものはすべて買い取ります。もし失敗したら補償もしましょう」と言うので、酪農家はみな納得し協力した。蟹江の志に向かって歩む熱心さに感心してしまったというわけである。


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