承継
軌跡

ひろちゃんの幼少期は、飯田橋の名物いたずらっこさんだった。

①五円玉にひもを通して、自宅の二階の窓から道路に五円玉を置き、そこを通る大人たちが拾おうとすると、五円玉が逃げる、また追っかける(笑)

大人たちは、やっと2階にひろちゃんがいることに気づて楽しんでいた。


②ある時、近所のキャンディーやさんのキャンディーが赤痢の元と、親から聞いて、正義感にあふれるひろちゃんは、店の前で食べちゃいかんと、逆番兵をしていた。さらには、朝 お見せの戸が開かないように、砂をまいて開かないようにした。

お店の人は、「ひろちゃんにはかなわないねえ」って当時の商店街の人情を思い出すエピソードである。


③親から言われたことは、すぐに人に話す。

 親が「あのお医者はやぶ医者だよ」って聞くと、そのお医者さんと会話をしているときに想いだし、突然、先生がやぶ医者ですね!と本人に言ってしまう親から見るとひやひやする子供だった。ちなみに「おけら」というあだ名を本人にいうこともあったとさ。


靖国神社の近くの幼稚園では、怖い夢を見て幼稚園不登園?

  • 幼稚園は靖国神社の近くの幼稚園だったが、ある時、ひろちゃんはそこの神主さんが出てくるとっても怖い夢を見て、幼稚園に行く日に隠れてしまい、とうとうその幼稚園には行かずじまいとなった。 母はそのことに関して、何も言わなかった。


幼稚園の年長さんから、改めてキリスト教系統の幼稚園に通った。

その女性の先生が好きになって、お家に行ってご飯をご馳走してもらったりしていた。
その先生が晩年、友人から、ひろちゃんに会いたいって言っていた。
   
しかし、大人になったひろちゃんは、その時会いに行きたかったがとても仕事が忙しく会いに行けなかった。今も少し心残りであり、どこに住んでいたか?お墓があるのかも分からない。


小学校1年生の時

  • さいじょうしげ先生(女性)の手をかじった!なんでかじったかはよく覚えていないが、こうしちゃダメ?みたいなことを言われたかと思う。
    自宅の裏に家を借りていて、子供たちの声がうるさかったのではと思う。


ひとり遊びもできる子であった

ある時、鉄道模型を台車だけ買ってもらい、ひろちゃんの頭の中には、台車に乗る完成された鉄道模型が見えていて、一日中一人で創造しながら遊べる子だった。


小学校6年生の時

みんなを集めて→君たちは何をしたいんだ!と遊びの企画を創り遊んだ。
友達には恵まれた。しかし中には、中学校になると悪い友達とくっつく友人もいてその後の人生は、あまり良くない方向性に変わった子たちを見てきた。

友達を選べ

母は、あまり「ああせいこうせい」はなかったが、友達だけは選べと言っていた

大学一年生では

小学生など子供たちのグループリーダもやり、遊びの中で様々な経験を罪積み学んでいった。

全優石21世紀への挑戦を11年間全力支援

低迷する石材業界の救世主として、全優石を11年間全力で支援!

"とにかく逃げよ” 全優石津波記憶石プロジェクト立ち上げから推進

2011年3月11日 東日本大震災の際、全優石は生業を通じて被災地支援をすると決めて、全優石津波記憶石プロジェクトお立ち上げました。
率先して何度も被災地に足を運び、被災年の年末に第一号の津波記憶石を岩手県釜石市根浜海岸沿いに建立する交渉をして竣工しました。

津波記憶石第一号 

宝来館の岩崎女将の功績も大きかったです。
岩崎女将には、津波記憶石委員長の萩の家石材 萩元社長からのご紹介で東京ラスク社長から岩崎女将への絆のリレーでした。

震災後3か月 釜石市街を歩いて移動中

釜石市街は壊滅的な状況でした。
全優石津波記憶石プロジェクト推進に向けて身を粉にして活動中

震災後、宝来館の岩崎女将と初対面

建物は ほぼ壊滅状態でした。

釜石市根浜海岸前にて津波記憶石の提案中

東日本大震災から約3か月後、建物の中での話ができないために、外で津波記憶石の件に関して説明しました。

釜石市のこの防潮堤を津波は軽々と乗り越えた。

この高さを乗り越えるとはこの写真からはとても想像できない。

津波記憶石第一号予定地にて建立イメージを体で作成

根浜海岸の記念碑が建っていたところなら、津波記憶石を建立しても良いと
許可がでたので、土台をそのままに石碑を建立することになった。

気仙沼では千田社長に津波記憶石のご提案

気仙沼の自動車ディーラーの千田社長と全優石津波記憶石のご提案。
千田社長はとても良い話と喜んでいただいた。
やがて、第二号津波記憶石は気仙沼に建立。

気仙沼市小泉地区で津波記憶石第二号現地打合せ

デザイン起案家 津波記憶石第二号
加工・施工は愛媛県今治市の青山石工房

津波記憶石第二号

津波記憶石第二号

間寛平さんも一緒に

津波記憶石第三号は釜石市唐丹に

全優石津波記憶石第三号は釜石市唐丹に建立

子供たち91名 おとな4名のメッセージが刻まれております。

静岡の沼津石材さん加工~施工までご尽力

津波記憶石4号~25号 すべて津波到達点に建立

津波記憶石4号~25号
福島県会津の古川石材店 古川社長(当時)と一緒に。
津波到達点の記憶石すべての加工~施工まで古川石材店さんが携わりました。
山崎石材も現地据付協力

全優石スーパーバイザーお疲れ様会

11年務めた全優石スーパーバイザー
お疲れ様会にて

日本バウハウス協会 2021年設立

今なぜバウハウスなのか
私たちのデザインはどこに向かうのか
日本の創造性はどうあるべきか
多様性とモダニズムの根本がここにある

1919年ヴァイマルに創設されたバウハウスは、20世紀の建築とデザインの礎を築いた国際色豊かな芸術学校です。新しい教育、ユニークな発想、シンプルな素材、形と機能で今日のデザインを実現しました。バウハウスには理念があります。わずか14年間で閉校しましたが、影響を受けた人々が世界中にその精神を伝えました。21世紀の多様性と混迷の社会を生き抜く時に、バウハウスの創造性が私たちと智慧の源泉となるのです。

一般社団法人 日本バウハウス協会は、ドイツのバウハウス研究機関と提携し、バウハウスの理念を啓蒙する日本で唯一の非営利団体の事務局長として奔走中!
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