承継
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本名:美空 ひばり(みそら ひばり)
戒名:茲唱院美空日和清大姉
墓地日野公園墓地(横浜市営)、日本

美空 ひばり(みそら ひばり、1937年昭和12年〉5月29日 - 1989年平成元年〉6月24日)は、日本歌手女優実業家神奈川県横浜市磯子区滝頭出身。横浜市立滝頭小学校、精華学園女子中学校・高等学校(現・東海大学付属市原望洋高等学校卒業

9歳でデビューし、その天賦の歌唱力で天才少女歌手と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで目覚ましい活躍をし自他共に歌謡界の女王と認める存在となった[2]。昭和の歌謡界を代表する歌手であり[2]、没後の1989年7月2日に国民栄誉賞を受賞した。本名は加藤 和枝(かとう かずえ)。愛称は「お嬢(おじょう)」。身長は155センチメートル(推定、番組内にて和也談)。

生涯[編集]幼少期[編集]神奈川県横浜市磯子区滝頭の魚屋「魚増」を営む父・加藤増吉(1912〜63)、母・喜美枝の長女・和枝(かずえ)として生まれた。増吉は栃木県河内郡豊岡村(現:日光市)、喜美枝は東京山谷の出身[3]。妹は佐藤勢津子、弟はかとう哲也香山武彦である。家にはレコードがあり、幼い頃より歌の好きな両親の影響を受け、和枝は歌謡曲や流行歌を歌うことの楽しさを知った。

1943年6月、第二次世界大戦に父・増吉が海軍に出征となり壮行会が開かれ、和枝は父のために『九段の母』を歌った。壮行会に集まった者達が和枝の歌に感銘し、涙する姿を目の当たりとした母・喜美枝は和枝の歌唱力に人を惹き付ける可能性を見出して、地元の横浜近郊から和枝の歌による慰問活動を始めるようになった。
1946年、NHK『素人のど自慢』に出場し、予選で『リンゴの唄』を歌い加藤母子は合格を確信したが鐘が鳴らなかった。審査員は「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由で悩んだ挙句、合格にすることはできないと告げた。横浜市磯子区の杉田劇場[注釈 1] で初舞台を踏む。翌年の春、横浜で行われたのど自慢大会終了後、加藤母子は審査員の古賀政男のもとに駆けつけて「どうか娘の歌を聴いてください!」と懇願し、和枝はアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌った。古賀はその子供とは思えない歌唱力、度胸、理解力に感心し「君はもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている」「歌手になるなら頑張りなさい」と激励した。
全国的人気を獲得[編集]
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1949年1月、日劇のレビュー『ラブ・パレード』(主役・灰田勝彦)で笠置の『セコハン娘』、『東京ブギウギ』を歌い踊る子供が面白がられ、同年3月には東横映画のど自慢狂時代』(大映配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演した。8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手としてB面ではあるが11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たした。続いて12歳で映画主演を果たした『悲しき口笛』(松竹)が大ヒット、同主題歌も45万枚を売り上げ(当時の史上最高記録)国民的な認知度を得た。この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は、幼少期のひばりを代表する映像として現在も目にする機会が多い。

1950年、川田晴久とともに第100歩兵大隊二世部隊戰敗記念碑建立基金募集公演のため渡米。帰国してすぐに2人の主演で『東京キッド』に出演。映画とともに同名の主題歌も前作同様の大ヒットとなった。

1951年、松竹『あの丘越えて』で人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じたが、実生活でも鶴田を慕い、ひばりは鶴田を“お兄ちゃん”と呼ぶようになった。同年5月新芸術プロダクション新芸プロ)を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がそれぞれ就任した。同年、嵐寛寿郎主演の松竹『鞍馬天狗・角兵衛獅子』に杉作少年役で出演。以後これを持ち役とした。

1952年映画『リンゴ園の少女』の同名主題歌と挿入歌「リンゴ追分」をカップリングしたシングルが当時の史上最高記録となる70万枚を売り上げる大ヒットとなった。
三人娘の時代[編集]
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1954年、『ひばりのマドロスさん』で第5回NHK紅白歌合戦に初出場した[注釈 4]1955年には江利チエミ雪村いづみとともに東宝映画『ジャンケン娘』に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博し、親交を深める。
1964年5月、新宿コマ劇場で初の座長公演を行う[34]。それまで歌だけのステージに芝居を加える舞台公演の第一号であった[34]。演技者としての活動の場を次第に映画から舞台に移し(初の座長公演は『ひばりのすべて』、『女の花道』)、同劇場のほか、名古屋の御園座、大阪の梅田コマ劇場にて長年にわたり座長を張り続けた。

ひばり代表曲・シングル売上

2019年現在[編集]

  1. 川の流れのように(1989年) - 205万枚[70]
  2. (1964年) - 195万枚[70]
  3. 悲しい酒(1966年) - 155万枚
  4. 真赤な太陽(1967年) - 150万枚
  5. リンゴ追分(1952年) - 140万枚
  6. みだれ髪(1987年) - 125万枚
  7. 港町十三番地(1957年) - 120万枚
  8. 東京キッド(1950年) - 120万枚
  9. 悲しき口笛(1949年) - 110万枚
  10. 波止場だよ、お父つぁん(1956年) - 110万枚
2019年3月集計、日本コロムビアの発表による出荷枚数(概数)。順位・枚数の出典は、美空ひばり没後30年、最も愛される曲は… 上位30曲、命日24日に発売 (1/2ページ)、産経ニュース、2019.6.18 10:25。
受賞歴[編集] 主な出演映画・テレビ番組は数知れないくらいの本数である。

           美空ひばり記念館

     美空ひばり記念館   東京都目黒区青葉台1丁目4-12
  美空ひばりが住んでいた自宅を記念館として公開しています。
    さまざまな資料や、調度品を見ることが出来ます!

  • ※注:このサイトは、美空ひばりに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝



このメッセージは、 2023年2月23日に、㈱スマートシニアさんが投稿
他の著名人のお悔やみサイト、追悼サイトと比べて、写真なども含め故人の情報が良くまとめてあることが良いですね! 広告なども出てこないのも見やすい理由かもしれません。 多くの方の功績を残せればよいと思いました。

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