(生い立ち)
1935年(昭和10年/康徳2年)9月14日、満洲国熱河省灤平県古北口古城裡[注釈 1]に赤塚藤七と妻リヨの長男として生まれる[6]。きょうだいには妹もいる[7]。
古北口は中国内地である河北省と満洲・熱河省との境界であった万里の長城において山海関と居庸関の中間地点に設けられた要害関門の町で、古来より北京(北平)と熱河とを結ぶ要地であり[8]、当時は満洲国と中華民国(冀東防共自治政府をまたぐ)との国境地帯であった。
父親である赤塚藤七(1908年4月22日 - 1979年5月17日・満71歳没)は新潟県西蒲原郡四ツ合村井随(潟東村を経て現在は新潟市西蒲区潟東地区井随)の農家出身で地元の小学校を経て苦学の末、陸軍憲兵学校の卒業試験を2番目の成績で卒業し、1931年(昭和6年)4月より関東軍憲兵となり同年9月の満洲事変に際して奉天で巡察警邏、郵便検閲、鉄道警察、国際連盟リットン調査団護衛などの任務を務めた。しかし1933年(昭和8年/大同2年)、上官の理不尽ないい分が我慢できずに職を辞し、満洲国警察古北口国境警備隊の保安局特務警察官として当時華北分離工作による政情不安に揺れていた中満国境地帯での匪賊討伐治安維持任務や現地人への定着宣撫工作、現地で抗日活動を行っていた東北抗日聯軍・八路軍等の抗日ゲリラや宋哲元・冀察政務委員会率いる国民革命軍第29軍と対峙して掃討・謀略(防諜)活動を行う特務機関員をしていた[2][9][10]。
古北口は中国内地である河北省と満洲・熱河省との境界であった万里の長城において山海関と居庸関の中間地点に設けられた要害関門の町で、古来より北京(北平)と熱河とを結ぶ要地であり[8]、当時は満洲国と中華民国(冀東防共自治政府をまたぐ)との国境地帯であった。
父親である赤塚藤七(1908年4月22日 - 1979年5月17日・満71歳没)は新潟県西蒲原郡四ツ合村井随(潟東村を経て現在は新潟市西蒲区潟東地区井随)の農家出身で地元の小学校を経て苦学の末、陸軍憲兵学校の卒業試験を2番目の成績で卒業し、1931年(昭和6年)4月より関東軍憲兵となり同年9月の満洲事変に際して奉天で巡察警邏、郵便検閲、鉄道警察、国際連盟リットン調査団護衛などの任務を務めた。しかし1933年(昭和8年/大同2年)、上官の理不尽ないい分が我慢できずに職を辞し、満洲国警察古北口国境警備隊の保安局特務警察官として当時華北分離工作による政情不安に揺れていた中満国境地帯での匪賊討伐治安維持任務や現地人への定着宣撫工作、現地で抗日活動を行っていた東北抗日聯軍・八路軍等の抗日ゲリラや宋哲元・冀察政務委員会率いる国民革命軍第29軍と対峙して掃討・謀略(防諜)活動を行う特務機関員をしていた[2][9][10]。