承継
この追悼サイトは、 円地 文子(小説家)さまのために作成されました。

享年81歳 、誕生日 1905年10月2日、命日 1986年11月14日
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円地 文子(えんち ふみこ、1905年明治38年)10月2日 - 1986年昭和61年)11月14日)は、日本小説家。本名:圓地 富美(えんち ふみ)。上田万年二女。戯曲から小説に転じ、『ひもじい月日』で文壇に地位を確立[1]。江戸末期の頽廃的な耽美文芸の影響を受け、抑圧された女の業や執念を描いて古典的妖艶美に到達。戦後の女流文壇の第一人者として高く評価された。『源氏物語』の現代語訳でも知られる[2]芸術院会員。文化功労者文化勲章

1912年4月、東京高等師範学校付属小学校二部(後の筑波大学附属小学校)に入学、当時は珍しかった男女共学のクラス(6年まで)だった[8]。もっとも学校が遠いうえに、身体が弱く、3分の2ほどしか登校しなかったという[9]。5、6年生の頃には『源氏物語』などの古典や谷崎潤一郎の小説を読み始め、歌舞伎にも親しんだ[8]1918年4月、日本女子大学付属高等女学校(現在の日本女子大学附属高等学校)に入学、変わらず歌舞伎や小説に耽り、谷崎のほか泉鏡花芥川龍之介ワイルドポーなど物語性の強い作家、特に永井荷風に熱中した[10]。しかし、校風に馴染めず、4年次終了と同時に退学[11]。好きなものを自由に学びたいという希望から、以後は、英語第一高等学校教授小椋晴次、大和資雄、イギリス人宣教師ミス・ボサンケットに、フランス語を一高教授杉田義雄に、漢文を学習院教授岡田正之に、それぞれ個人教授を受けて結婚前まで勉強し続けた

1926年9月、21歳の時に演劇雑誌『歌舞伎』の一幕物時代喜劇脚本懸賞募集に「ふるさと」が、小山内と岡本綺堂の選で当選(翌月掲載)[13]1927年2月小山内の演劇講座の聴講生となり、同人誌『劇と評論』に幾つか戯曲を書いた[12]1928年7月、長谷川時雨主宰の『女人芸術』発刊披露の会に出席、林芙美子平林たい子片岡鉄兵らを知った[11]。この年はプロレタリア文学運動の全盛期であり、円地もその影響から一時左翼思想に接近、実践には加わらなかったが、片岡とは親しく交際した[14]。10月『女人芸術』に一幕劇「晩春騒夜」を発表し、徳田秋声の賞賛を得る[15]。小山内にも認められ、早速12月築地小劇場で初演されて[注 2]好評を博すも、その最終日の25日に、小山内は、上田家(円地文子の実家)が日本橋偕楽園に招いた祝宴の席上で、狭心症のため急逝。円地は衝撃を受ける[16]。後に、この時期の生活は『散文恋愛』『朱を奪うもの』などの自伝的作品に何度も描かれた[17]。その後も、『女人芸術』のほか『新潮』、『文藝春秋』、『火の鳥』などに戯曲を書いた[18]

1930年3月27日、東京日日新聞の記者円地与四松(34歳)と結婚[注 3]鎌倉材木座小石川区(現・文京区表町109を経て、中野区江古田4-1559に居を構えた。この間の1932年9月12日長女素子[注 4]を出産する[20]1935年4月、寺田寅彦の紹介で処女戯曲集『惜春』が岩波書店より刊行され、小宮豊隆からは好意的な評価を得た

1951年河盛好蔵の尽力により『小説新潮』に「光明皇后の絵」が掲載されると、以後は年に数度同誌を中心に注文を受けるようになった[31]。名作『女坂』の冒頭部分が書かれたのはちょうどこの時期である[注 6][3]。だが、未だ文芸誌や綜合雑誌に執筆する機会には恵まれず、その中で『中央公論』の編集者笹原金次郎や古山高麗雄らと知り合いになった[32]。そして1953年12月、笹原の勧めで『中央公論』に「ひもじい月日」を発表、『日本読書新聞』で平野謙の賞賛を受け[33]、さらに翌年3月には、第6回女流文学者賞に当選。同年12月中央公論社より短篇集『ひもじい月日』が刊行され、翌月(1955年1月)の『読売新聞』文芸時評で正宗白鳥がこれを高く評価したことが、円地の文壇復帰を決定づけた[7]。次いで、私小説的作品『朱を奪うもの』(1956年5月河出書房刊、以下三部作で1969年第5回谷崎潤一郎賞受賞)も好評を博した。その後も旺盛に執筆。源氏物語伊勢物語更級日記上田秋成、あるいは能面などを素材に、古典への深い造詣に裏付けられた円熟の筆致で、女の業や執念、老醜、人生の妖性や神秘性を描いて高い評価を獲得[34]。『女坂』(1957年3月角川書店刊、第5回[注 7]野間文芸賞受賞)、「」や「二世の縁 拾遺」などを収めた短篇集『妖』(同年9月文藝春秋新社刊)、『女面』(1960年7月講談社刊)、『花散里』(1961年4月文藝春秋新社刊)、『傷ある翼』(1962年3月中央公論社刊)、『小町変相』(1965年5月講談社刊)、『なまみこ物語』(同年7月中央公論社刊、第5回女流文学賞受賞)などの代表作を生み、文名を高めていった。とりわけ、傑作との評価が高い短篇「妖」は、円地の文壇的地位を不動のものとした作品である[35]。また、『女坂』は、円地が1940年頃から構想し、1949年から8年かけて完成させた連作長編である。母方の祖母村上琴の半生をモデルに、封建制の下抑圧された女の自我と愛を描いたもので[36]、掲載中は発表誌の『小説新潮』が中間小説誌だったために時評からは殆ど無視され、新潮社からは単行本の刊行を断られた。だが、角川書店から「角川小説新書」の一冊として刊行されると[注 8]、圧倒的な世評を得てベストセラーとなり、また、11月の第5回野間文芸賞に当たっては、石川淳『紫苑物語』、野上弥生子迷路』、三島由紀夫金閣寺』、平林たい子『砂漠の花』、谷崎潤一郎』、吉川英治新・平家物語』といった有力候補を押さえて当選

1957年1月15日アジア文化財団の招きで、平林らと共に7月24日までヨーロッパ各地を旅行した[43]1964年には、6月9日から7月20日まで、オスロで開催されるペンクラブ大会に出席するために平林らと共に再びヨーロッパ各地を旅行した[44]。その後も1977年9月4日から22日までヨーロッパを旅行している[45]1970年、ハワイ大学夏期講座で女流文学の講演をするために7月10日から9月18日までハワイに滞在した[46]

1958年、平林の後任として女流文学者会の会長に就任、以後約18年間会長を務めた[47]。なお、平林と円地は1935年頃からの親友であり、1958年には一緒にアメリカに行っている[48]

1967年夏、幼少の頃より親しんだ『源氏物語』の現代語訳に着手、文京区関口の目白台アパートに仕事場を定めた(訳業終了により1973年秋上野へ戻った)[49]。5年半の歳月をかけた訳業は1972年に完成。同年9月から翌年6月にかけて新潮社より『円地文子訳源氏物語』全10巻が刊行された。

地図に載らない文学館 ネットミュージアム兵庫文学館  兵庫ゆかりの作家・円地文子

           円地文子 
作品一部
   ひもじい月日   女面    花散里    終の棲家    女坂
   朱を奪うもの   妖・花食い姥   源氏物語(全10巻)  遊魂
   問わず語り    猫の草子               etc.

円地文学の映画作品
   木乃伊(ミイラ)の恋     食卓のない家       結婚相談 
   霧に消えた人     団地夫人    愛情の系譜    男の銘柄
   女舞         結婚の夜     
 

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軌跡

(生い立ち)

1905年10月2日、東京府東京市浅草区向柳原2-3(現・台東区浅草橋)に、父上田万年(38歳)、母鶴子(29歳)の二女として生まれる[3]。本名富美。家族は他に、父方の祖母いね(66歳)、兄寿(8歳)、姉千代(4歳)がおり、さらに女中、書生、兄の乳母、抱え車夫の夫婦などがいた[4]。父万年は東京帝国大学文科大学(後の文学部)国語学教授で、後に現代国語学の基礎の確立者と称される人物である[5]{{[3]。父母共に、歌舞伎や浄瑠璃を好み、幼少期から影響を受けて育った。それらは、江戸時代の頽廃芸術の流れを汲んだもので、「そこに育てられてきたものには性の倒錯も含まれていたと思われる」と後に円地は回想している