この追悼サイトは、 家永 エイ(長崎三女傑のひとり・女性実業家)さまのために作成されました。
享年67歳 、誕生日 1860年2月18日、命日 1927年5月12日
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注)写真は映画化された際の「家永カノ」役の女優さんです。
家永 エイ(いえなが エイ、万延元年(1860年)2月18日 - 1927年(昭和2年)5月12日)は、長崎県長崎市稲佐にあったロシア人向けのホテル・ヴェスナーなどを経営した女性実業家。洋妾・からゆきさん[6][5]。長崎では稲佐お栄の通称と共に日露親善に尽力した女性として知られ[6][7]、楠本イネ・大浦慶と共に長崎三女傑に数えられる[8][7]。以下、本記事ではお栄と表記し、特記のない年齢は数え年とする。
翌年の1891年にお忍びで長崎に上陸したロシア皇太子ニコライらをもてなし、一説には寝室を共にしたとされる。このほかアレクセイ・クロパトキンと浮名を流した。ただしこのような艶っぽい話は後年の新聞などによって広められた俗説とする説もある。
1893年にホテル・ヴェスナーを稲佐に開業、さらに1903年にも平戸小屋に自宅兼ホテルを開業した。お栄の自宅兼ホテルには旅順で敗戦し捕虜となったアナトーリイ・ステッセリも宿泊している。日露戦争終結後には茂木に茂木ホテルを開業した。
原勇によれば「お栄は出国にあたり有り金50円をはたいて大村産真珠を買い求めていた。そしてウラジオストクで宝石商に売却し、5000円の巨利を得た。またクラトフからロシアの様子を聞いていたお栄は、日本に西洋紙の時代が来ることを見越し、有力者と協同でシベリアの森林を利用したパルプ工場を造ることを夢見ていた。
上海に着いてからのお栄について原は「上海フランス租界で海軍大尉曽根謙介(曽根俊虎)と出会ったほか、ロシアの上海領事ペテロフ夫婦と交友し、蘇州まで足を延ばした。またホテル巴里で花売りをしていた千代子(当時8歳)と出会い養子にした。
お栄のホテルでくつろぐ軍人と女たち(長崎大学附属図書館古写真データ・ベース)
ホテル・ヴェスナーと桟橋(長崎大学附属図書館古写真データ・ベース)お栄は稲佐(現・旭町)に敷地面積300坪の土地を借り受け、1893年(明治26年)にホテル・ヴェスナーの創業する[14][16]。ヴェスナーの落成式には地元有志のほか長崎港に停泊中のロシア極東艦隊の司令長官以下幹部も参列し、盛大に行われた[28]。ただし松竹は、「ナヒーモフ海軍大将号の世界周航」のアルバムに映る「長崎の料理屋」を根拠に、ヴェスナーの完成を1889年以前と推測している[29]。
「ヴェスナー」はロシア語で「春」を意味し、20室の客室のほか、ロビー・宴会場・遊技場など当時の最新の設備を備えた施設であった[16][28]。ヴェスナーが建てられたのは岬の突端で、長崎港や対岸の山手・市街地、鍋冠山・愛宕山などを見渡せる風光明媚な立地であった[28][注釈 2]。
このころのお栄はロシア軍人の間でロシア海軍の母と呼ばれるようになるなど[32]、「来崎するロシア軍人でその名を知らぬものは居ない」と言われるほどの存在になっていた[33]。
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享年67歳 、誕生日 1860年2月18日、命日 1927年5月12日
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注)写真は映画化された際の「家永カノ」役の女優さんです。
家永 エイ(いえなが エイ、万延元年(1860年)2月18日 - 1927年(昭和2年)5月12日)は、長崎県長崎市稲佐にあったロシア人向けのホテル・ヴェスナーなどを経営した女性実業家。洋妾・からゆきさん[6][5]。長崎では稲佐お栄の通称と共に日露親善に尽力した女性として知られ[6][7]、楠本イネ・大浦慶と共に長崎三女傑に数えられる[8][7]。以下、本記事ではお栄と表記し、特記のない年齢は数え年とする。
主なエピソード[編集]
お栄は当時ロシア人の居留地になっていた長崎市稲佐のロシア将校クラブで洋妾として働いたのち、ロシア艦隊旗艦の艦長に気に入られて22歳で渡露。ウラジオストクに滞在したのち、31歳で帰国した。翌年の1891年にお忍びで長崎に上陸したロシア皇太子ニコライらをもてなし、一説には寝室を共にしたとされる。このほかアレクセイ・クロパトキンと浮名を流した。ただしこのような艶っぽい話は後年の新聞などによって広められた俗説とする説もある。
1893年にホテル・ヴェスナーを稲佐に開業、さらに1903年にも平戸小屋に自宅兼ホテルを開業した。お栄の自宅兼ホテルには旅順で敗戦し捕虜となったアナトーリイ・ステッセリも宿泊している。日露戦争終結後には茂木に茂木ホテルを開業した。
経歴[編集]
稲佐とロシア[編集]
→「ロシア軍艦対馬占領事件」および「からゆきさん」も参照
万延元年(1860年)にロシア軍艦が長崎に入港すると、提督のニコライ・ビリリョフはロシアの水兵が丸山遊廓で狼藉を働くあるいは梅毒に感染することを憂慮し、長崎奉行所にロシア人向けの遊興施設を設けることを要求した[6]。当時の長崎で異国人相手の売春の独占を許されていた丸山町・寄合町の乙名たちはロシア人が乱暴を働くことと梅毒検査を要求したことから丸山遊女を派遣することに難色を示し、代わりに漁村の娘などを集めて稲佐でロシア人向けの売春営業を始めた。その場所が稲佐のマタロス休息所(のちに稲佐遊廓)である[6]。シベリア行き[編集]
クリスマスにロシア将校クラブに飾るためのヒイラギを用意したお栄は、それをかわれてロシア艦隊旗艦に招待された。そして艦長モロゾフに気に入られたお栄は、1881年(明治14年)9月に船長付のボーイという名目で乗艦しロシアに渡った[13]。当時はお栄のようにロシアに渡るからゆきさんは少なくなかった。1902年(明治35年)の東洋日の出新聞によれば、シベリアで洋妾をする女性のほとんどは長崎・天草の出身者が多く、甘言に誘われて密航するものが跡を絶たなかった[15]。原勇によれば「お栄は出国にあたり有り金50円をはたいて大村産真珠を買い求めていた。そしてウラジオストクで宝石商に売却し、5000円の巨利を得た。またクラトフからロシアの様子を聞いていたお栄は、日本に西洋紙の時代が来ることを見越し、有力者と協同でシベリアの森林を利用したパルプ工場を造ることを夢見ていた。
洋妾の斡旋[編集]
帰国後のお栄はボルガに戻ってマツの片腕になり[16][2]、洋妾の斡旋を行うようになった[17]。中條直樹と宮崎千穂は、稲佐で洋妾の手配を行っていた代表的な人物にマツとお栄の名を挙げている[17]。また松竹によれば、お栄は遅くとも1884年(明治17年)までにロシア将校クラブの責任者になっていた[18]。ニコライ訪日[編集] 1891年(明治24年)4月27日、ロシア皇太子のニコライがギリシア親王のジョージと共に長崎に来航した[6][7]。ニコライは日本への渡航の途中、ピエール・ロティが長崎での体験をもとに執筆した半自伝小説『お菊さん』を読み[22]、そして稲佐に現地妻を囲うロシア人将校が居ることを知ると、自分もそうありたいと日記に記している[23]。
ニコライの国賓としての公式な来日は5月4日であったが、それまでの間3日間にわたってお忍びで長崎に上陸をした。この際、県当局の意向を受けてニコライらをもてなしたのがお栄らである[6][7上海行き[編集]
1892年(明治25年)にお栄は東京から京都へと旅行した。さらに翌1893年(明治26年)3月、お栄はロシア鑑に便乗して上海へ渡った[20]。上海に着いてからのお栄について原は「上海フランス租界で海軍大尉曽根謙介(曽根俊虎)と出会ったほか、ロシアの上海領事ペテロフ夫婦と交友し、蘇州まで足を延ばした。またホテル巴里で花売りをしていた千代子(当時8歳)と出会い養子にした。
ホテル・ヴェスナー[編集]
画像外部リンク

「ヴェスナー」はロシア語で「春」を意味し、20室の客室のほか、ロビー・宴会場・遊技場など当時の最新の設備を備えた施設であった[16][28]。ヴェスナーが建てられたのは岬の突端で、長崎港や対岸の山手・市街地、鍋冠山・愛宕山などを見渡せる風光明媚な立地であった[28][注釈 2]。
出産[編集]
35歳になっていたお栄は、1894年(明治27年)3月15日に長男の敬(たかし)を出産する[28]。お栄は敬の父親を「曽根謙介(俊虎)」で押し通していた。また原も「明治30年秋に曽根謙介と再会し別府温泉に旅行する。翌年8月に出産」と記すが、原の記述には明らかに戸籍の記載と齟齬がある[28]。また敬の顔が「ロシア顔[注釈 3]」であったため後述するアレクセイ・クロパトキンとの子という噂がのちに流れたという[6]。ただし松竹秀雄は、こうした話は後年に新聞でもっともらしく広められたものでクロパトキンが滞在した1902年に敬は満9歳になっていたと否定し[5]、真相は明らかではないとしている[28]。また鶴田は父親をロシア提督のマカロフとしている[1]。転居[編集]
1899年(明治32年)5月に肺結核にかかったお栄は、1900年(明治33年)に事前に買い求めていた平戸小屋の土地に自宅兼ホテルを建て、ヴェスナーの経営をマツに任せるようになった[14][16][28][注釈 4]。自宅兼ホテルは洋風建築で自宅兼宴会場の木造2階建と宿泊室の木造平屋建の2棟からなり、顧客はロシア艦隊の艦長や幕領に限られていた[16][30]。山川清英によれば、この自宅兼ホテルの名称はネヴァである[31]。このころのお栄はロシア軍人の間でロシア海軍の母と呼ばれるようになるなど[32]、「来崎するロシア軍人でその名を知らぬものは居ない」と言われるほどの存在になっていた[33]。
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