承継
この追悼サイトは、 エドガー・アラン・ ポー(アメリカの小説家、詩人、評論家)さまのために作成されました。

享年40歳 、誕生日 1809年1月19日、命日 1849年10月7日
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エドガー・アラン・ポー(英語: Edgar Allan Poe, 1809年1月19日 - 1849年10月7日)は、アメリカ合衆国小説家詩人評論家

人物
マサチューセッツ州ボストンに生まれる。旅役者であった両親を早くに失い(父親は蒸発、母親は死亡)、名づけ親の商人アラン家に引き取られ、幼少期の一時期をロンドンで過ごした。帰国後17歳でヴァージニア大学に進む。学業成績は極めて優秀で、詩人としても認められるが、賭博、大酒で悪名を馳せる。養父アランと賭博の借金が原因で仲たがいになり退学。家を出て陸軍に入隊。いったん除隊して養父とのよりを戻し、こんどは士官学校に入学するもなじめず、規則違反行為で退学処分。その後、文筆で身をたてるべく詩や短編小説を創作し始める。(筆名には、養家名のアランをそのまま名乗ることはなく、ほとんどエドガー・A・ポー、あるいはエドガー・ポーとしている) ゴシック風の恐怖小説「アッシャー家の崩壊」「黒猫」、世界初の推理小説と言われる「モルグ街の殺人」、暗号小説の草分け「黄金虫」など多数の短編作品を発表、また1845年の詩「大鴉」でも評判を取った。また同時に有能な雑誌編集者であり、文芸批評家でもあったが、飲酒の悪癖などでトラブルを起こす癖はなおらず、いくつもの出版社を渡り歩いた。1833年、当時まだ13歳だった従妹ヴァージニア・クレムと結婚するが、1847年に貧苦の中で結核によって彼女を失い、その2年後にポー自身も謎めいた死を遂げた。

ポーはアメリカにおいて文筆だけで身を立てようとした最初の著名な作家であったが、文名を得てからもその生活はほぼ常に貧窮の中にあった[1]その作品は当初は本国よりもむしろヨーロッパで評価され、特にボードレールによるポーの翻訳はフランス象徴派の文学観形成に大きく寄与した。またポーが「モルグ街の殺人」で作り出したC・オーギュスト・デュパンの人物像は以後の推理小説における探偵の原型となっており、ポーは近代推理小説の開祖とみなされている。そのほか科学的知見を取り入れた『アーサー・ゴードン・ピムの物語』などの冒険譚はジュール・ヴェルヌら後世のSF作家にも影響を与えている。

生涯
出自
250px-Edgar_Allan_Poe_Birthplace_Boston.jpgポーの生誕地付近にある記念プレートマサチューセッツ州ボストン。エドガー・アラン・ポーは1809年、マサチューセッツ州ボストン市に、ロンドン出身の女優エリザベス・ポーと俳優デイヴィッド・ポーの息子エドガー・ポーとして生を受けた。父方の祖父のデイヴィッド・ポーは独立戦争時に活躍して歩兵から少佐に昇級し、私財を投じて独立軍のために食料を賄ったことから兵士たちに「ポー将軍」と尊称されていた人物であった[2]。ポーの父デイヴィッドは彼の名を継いだ四男であり、当初は法律を学んだもののその後演劇を志し、ボルティモアの素人劇団で俳優として活動していた。一方母エリザベス・ポー(旧姓アーノルド)はこの頃ボルティモアの「新劇場」で活躍しており、1802年頃に同じ一座で活動していたチャールズ・ホプキンスと結婚するも1年で離婚、その後一座に出演するようになったデイヴィッド・ポーと1806年に結婚した[3]

エドガー・ポーは次男であり、兄に2つ上のウィリアム・ヘンリー・レナードがおり、また1年後にやや知恵遅れの妹ロザリーが生まれるが、巡業に忙しい両親は子育てをしている暇がなく、幼い兄弟はボルティモアの父の実家に預けられていた[4]。「エドガー」の名は、おそらく、両親が1809年に公演したシェイクスピアリア王』から取られたものと思われる[5]

しかし1810年10月、バージニア州リッチモンドでの公演を終えた直後に、父デイヴィッドが突如家族を捨て失踪してしまう。当時エリザベスは長女ロザリーを身ごもっており、また夫の実家からエドガーのみを引き取ってきた後だったが、出産の準備のために収入が途絶え、出産の前後は貧困生活に苦しまねばならなかった[6]。産後の肥立ちも悪く、1811年1月には舞台に復帰していたが、結核にかかり同年12月に他界する。両親を失った子供たちは、兄ウィリアムが父方の実家に、エドガーが両親と親交のあったリッチモンドのアラン家に、ロザリーがアランの友人宅にそれぞれ引き取られることになった[7]

エドガーを引き取ったジョン・アランは成功した商人であり、タバコや織物、小麦、墓石から奴隷まで幅広い商品を扱う輸入業者であった[8]。彼は1803年にフランセス・ヴァレンタインと結婚していたが子宝に恵まれず、自身たちと同じスコットランド系の孤児を望んでいた夫人が特に希望してエドガーを養子にしたいと申し出たのである[9]。ポーはこの際に「エドガー・アラン・ポー」の名が与えられるが、しかし養子とするための正式な手続きは行なわれていなかった[10]

大学時代まで
1815年、前年に米英戦争が終結し時局が安定したため、アラン一家は事業拡大のためイギリスに渡った。ポーはアランの生まれ故郷であるスコットランドのアーヴィンで短期間グラマースクールに通った後、1816年に一家とともにロンドンのチェルシーに移りここで寄宿舎生活を送った。しかし養母フランセスが健康を害したため転地療養を繰り返し、これに併せてポーも転校を余儀なくされた[11]。1817年の秋季からはロンドン郊外のストーク・ニューイーストンにあるマナー・ハウス学校に通った。ここでの寄宿舎生活はのちに「ウィリアム・ウィルソン」で生かされることになる[11]

1820年になるとアランのロンドンでの事業拡大が失敗に終わったことがはっきりし、6月に一家はリッチモンドに戻ることになった。アメリカに戻ったポーはアイルランド人の経営する英語・古典学校に通い、ここでフランス語、ギリシャ語、ラテン語や古典文学を学んだ。ポーは外国語では抜群の成績を収めており、また詩作もこの頃に始めている。一方義父アランはリッチモンドでの経営も思わしくなく、1825年には商会を解散したうえ自宅も売却せざるを得なくなった。しかしちょうどその頃にアランの伯父にあたるウィリアム・ゴールドが死去し、アラン家に75万ドルと見積もられる莫大な遺産が転がり込んだ[12]。アラン家はふたたび金満家になり、その祝いにリッチモンドの本通りに豪奢な2階建ての家を購入することができた[13]

1826年、ポーは前年に開校したばかりのヴァージニア大学に入学した。大統領から退いたトマス・ジェファーソンが設立し自ら総長を任じていた大学で、学生の自主的活動を重んじ、学課も自由選択制をとっていた。ポーはここの学生寮で生活しながら、ギリシア語、ラテン語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語を学び、そのほか古代地理、美文学、修辞学なども受講し、文学ではウェルギリウストゥキディデスユウェナリスホメロスヘシオドスといった古典文学の他、シュレーゲル兄弟ノヴァーリスティークホフマンゲーテシラーなどのドイツ文学に親しみ、図書館にも熱心に通った[14]

しかし、大学生活は心楽しいことばかりではなかった。ポーは大学に入る前年、近所に住む美少女サラ・エルマイラ・ロイスターと恋に落ち、密かに婚約を交わしていたのだが、大学に入って以降に彼女へ送った恋文の返事がまったく来なかったのである。ポーは知らなかったのだが、彼の送った手紙はエルマイラの父親に破り捨てられていたのである。その後、エルマイラは父親により豪商の息子に嫁がされることが決まった[15]

失恋に続き金銭面での問題が起こった。義父アランからの送金が遅れたために生活が困窮し始め、ポーは小遣い銭を得るためにトランプ賭博に手を出すようになった。その後義父の送金が届いてからも賭博をやっては負け続け、その負債額は2000ドルに及んだ。事情を知ったアランはポーの生活費の借金は返済してやったが、賭博の負けは絶対に返済しようとしなかった[16]

文筆生活
ポーはジャーナリズムの活発なボルティモアを生活の場に定め、クレム叔母の家に居候をしながら(実兄のウィリアム=ヘンリーは結核で1831年8月に死去していた)短編小説の執筆を始めた。1832年の1月、『サタデー・クオリア』誌に「メッツェンガーシュタイン」が採用され、以後同誌に「オムレット侯爵」「エルサレムの物語」「息の喪失」「バーゲンの損失(のち「ボンボン」として改筆)」が掲載、1833年からは『サタデー・ヴィジター』誌に詩や短文を掲載した。この頃ちょうど同『サタデー・ヴィジター』誌が短編と詩の懸賞を打ち出したため、ポーは『フォーリオ・クラブ物語』と名づけた短編6編と詩を投稿、このうち短編「壜の中の手記」が最優秀作に選ばれ賞金50ドルを獲得した[29]

小説

1830年代

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注:このサイトは、エドガー・アラン・ポーに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2025年10月7日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
世界初の推理小説を書いた人として知られる。 活動は多岐に及び、後世に様々な影響を与えています。   ミステリー小説の世界に大きな影響を与えたポーの作品を再評価し、味わってみましょう。     合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2025年10月7日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
世界初の推理小説を書いた人として知られる。 活動は多岐に及び、後世に様々な影響を与えています。   ミステリー小説の世界に大きな影響を与えたポーの作品を再評価し、味わってみましょう。     合掌