承継
この追悼サイトは、 三上 千代(ハンセン病に尽くした看護婦)さまのために作成されました。

誕生日 1891年10月、命日 1978年7月18日(注:誕生日は不明で仮に1日としています)
※ 本サイトは参加型のため、三上さんへのメッセージ投稿などがサインインで可能です。


三上 千代(みかみ ちよ、1891年 - 1978年7月18日) は、ハンセン病患者に尽くした看護婦で、ナイチンゲール記章を受章した。コンウォール・リーを助け、バルナバ医院、その後は鈴蘭病院、鈴蘭園、また宮城県の施設や全生病院、終戦前後は空襲を受けた国頭愛楽園(国立療養所沖縄愛楽園)、その後国立療養所多磨全生園で勤務した。

ハンセン病患者を救った聖医・小川正子ーー「生きてゆく日に愛と正義の十字路に立たば必ず愛の道に就け」 - 久恒啓一のブログ「今日も生涯の一日なり」
1957年ナイチンゲール記章受章。1957年黄綬褒章受章。1965年勲四等瑞宝章受章。1978年7月18日年死去。享年88。



関連サイト


看護師の三上千代(川上千代)とハンセン病最初の女性医師服部ケサの功績
  • チヨは、親愛病院で、87歳の生涯を閉じた。千代の墓は服部ケサの横に建てられた。
ハンセン病最初の女性医師服部ケサ
ハンセン病者への偏見と差別があり、女性が医師になるのが困難であった大正時代に、ハンセン病者に尽くした女性医師。「女性史、ハンセン病を研究されている方々に読んでほしいんのです」(著者)。

【服部ケサとは】
1884年、福島県岩瀬郡須賀川村(現在の須賀川市)生まれ。
1905年、東京女医学校に入学し、当時の医師制度が変更されるなか、女性医師への道が限られるなか、1914年に医師免許取得。女医の就職先が少ないなか、三井慈善病院に看護師として勤務する。この病院で、看護師の三上千代と出会い、キリスト者となる。
1917年、イギリス人女性宣教師コンウォール・リーと三上に乞われ、ハンセン病者が集落をつくっていた群馬県草津に向かい。翌年発足した聖バルナバ医院で医師として働く
1924年、持病の心臓病が悪化する中、三上とともに聖バルナバ医院を退職。新居を「鈴蘭医院」とするも、同年11月22日、心臓麻痺のため亡くなった。
1932年、聖バルナバ医院、鈴蘭医院の近くに、国立療養所栗生楽泉園が設立される。
※注:このサイトは、三上千代に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2023年7月25日に、墓マイラー趣味クラブさんが投稿
このサイトを見て勉強になりました。また、自分でも調べコメントー追記させていただきました。 三上千代さんのような素晴らしい人生の使い方、読んで勉強すると元気が出ます!
このメッセージは、 2023年7月18日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
医療設備も無い施設で、ハンセン病患者の為に困難に立ち向かって尽くした看護婦の鑑と言っても過言ではないナイチンゲール記章受賞の三上千代を、いつまでも忘れません。    合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2023年7月25日に、墓マイラー趣味クラブさんが投稿
このサイトを見て勉強になりました。また、自分でも調べコメントー追記させていただきました。 三上千代さんのような素晴らしい人生の使い方、読んで勉強すると元気が出ます!
このメッセージは、 2023年7月18日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
医療設備も無い施設で、ハンセン病患者の為に困難に立ち向かって尽くした看護婦の鑑と言っても過言ではないナイチンゲール記章受賞の三上千代を、いつまでも忘れません。    合掌
軌跡

生い立ち~活動

  • 1891年山形県山形市旅籠町371番地に旧新庄藩士の娘として出生。
  • 1903年山形高等女学校入学。1905年同学中途退学。1908年聖書学院入学、初めてらい患者をみる。1910年聖書学院卒業。東洋福音教会の伝道員として、らい患者への奉仕を決意する。
  • 1912年三井慈善病院看護婦講習所に入所。1915年看護婦試験合格。1916年全生病院看護婦(らい病院)、1917年同退職。バルナバ教会愛の家庭舎監、聖バルナバ医院看護婦を務める。
  • 1924年同退職、鈴蘭病院を開設するも、共同経営者の服部ケサが死亡。1925年光田健輔の示唆で産婆試験合格。1926年光田健輔の援助により草津町滝尻原に鈴蘭園開設(年度末の統計で最大22名収容)。1931年宮城県に未感染児童保育所開設(第2鈴蘭園、2年で終わる)。1933年同廃止。全生病院看護婦となる。
  • 1938年沖縄国頭愛楽園看護婦長に就任。1947年全生病院看護婦となる。1951年婦長。1954年全生病院退任。

政府直営のらい療養所・国立療養所栗生楽泉園を作るまで

  1. 著書『鈴蘭村』には[要ページ番号]、彼女がらい患者に奉仕する決意を固めたのは、東洋福音教会の伝道員を務めていた18歳の時、らいの症状がある姉妹の患者を訪れた時という。その決意は固く、その後看護婦になり、資格を得ても勤務が必要であったが、院長に頼み光田健輔に紹介してもらったという[1]。光田は簡単に採用した。
  2. コンウォール・リーと会い、「愛の家庭」の舎監として迎えられ、バルナバ医院を開設した。当時の服部の文章がある。治療といたしましては、毎日大風子油混合液の皮下注射を行っております。これによって病勢をある程度まで停止させます。その他は外科的治療で足穿孔症、らい結節の処置等でありまして、前後6年間日ごとの手当てを加えつつなお治癒しない潰瘍もあります。実に医師と患者との忍耐を要する病気であると思います。
  3. 後に、光田は全生園に呼び戻そうとした。滝尻原というところに水が湧いた原野を三上千代は借り受けた。光田院長が私費で1000円を出した。三上のために日本救らい協会(MTL)が結成された。農家を1軒買って治療センターにした。
  4. 光田健輔は三上を連れて、実業家渋沢栄一に相談にいった。ボーリングの話を聞いて賛成したが、その後内務省との話になり、政府直営のらい療養所・国立療養所栗生楽泉園を作るという話になった。渋沢は三上に「せっかく今まで営々と苦心して築きあげたものを政府にとられて惜しいと思わないか」と聞いたが、三上は「政府がやって下さらないから私のような無力のものがてをつけては、及ばぬ努力をしたのでございます。政府が引き受けて下さると安心して私は退きます」と答えた。三上が以前妊婦診療所としていた場所は草津郵便局分室となり、日本最初というSK式消毒機を使った。[要出典]

戦時中の活躍

  • その後、仙台市郊外、名取郡秋生村西沢に未感染児童保育所を作った(1931年 - 1933年)が、諸事情が重なり(騙されたこともあった)2年間で終了した。その後全生園看護婦になる。[要出典]
  • 1937年4月国頭愛楽園婦長(初代)となり、沖縄に赴任、47歳であった。ライに対する感情が強い当時であり、困難が待ち受けていた。園長は塩沼英之助。園長は早田に代わり戦争が末期になり、日本軍は患者を強制的に収容し2か月で400名増員となった。終戦を迎えた。外科医もいなかったので、手術もしたと書かれている。医局長の女医松田なみは、「三上婦長を中心に、合計7名の天使群はまるで戦場における7名の武士のように、勇敢に最後までふみ止まって職務を遂行した。[要出典]爆撃の合間を縫いながら壕から壕を廻っての決死行である」と書いている[2]。近所の医療に駆り出されたこともある。1946年全生園看護婦に復帰した。
  • 晩年は、清瀬市の信愛病院で過ごした。銀座教会のメンバーによる清瀬訪問は昭和21年(1946)に発足した「光の組」メンバーによって継続されてきた。そのメンバーは、銀座教会に関係する人だけではなく、三上チヨの病室にも訪れては讃美歌を合唱した。チヨの楽しみであり、慰めになったことだろう。
報告

川上千代さんの生き方は素晴らしい!

墓マイラー趣味クラブさんが2023年7月25日に投稿
  • 川上千代さんのすばらしさは、ハンセン病に苦しむ患者たちへの情熱的な奉仕活動にあります。彼女は自らの成功や栄光を追求するだけでなく、社会的なタブーであったハンセン病の患者たちに寄り添い、彼らの困難に対して積極的な支援を提供しました。ハンセン病は長らく偏見と差別に苦しむ疾患でしたが、川上千代さんはその偏見を乗り越え、彼らの尊厳を守り、社会的な意識を高めるために活動しました。
  • 金銭的な利益や名声を追求することなく、彼女は自らの力でハンセン病患者たちに希望となるような支援を提供し続けました。その献身的な姿勢は、多くの人々に感動を与え、彼女の活動は社会的な変化をもたらす原動力となりました。
  • 川上千代さんのような人々が世界に存在することは、希望の光としての重要な存在です。彼らの生き方は、金銭的な成功や名声よりも、人間性や共感、社会貢献が真の価値を持つことを示しています。そのような人々の存在が、世界に対して希望と前向きな未来をもたらすことでしょう。