この追悼サイトは、 ブリジット・バルドー (フランスの大女優、歌手、フアッションモデル)さまのために作成されました。
享年91歳 、誕生日 1934年9月28日、命日 2025年12月28日
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ブリジット・バルドー(フランス語: Brigitte Bardot, 1934年9月28日 - 2025年12月28日)は、フランス・パリ15区[1]出身の女優、ファッションモデル、歌手、動物保護活動家である。頭文字が B.B.[注釈 1]であることから、同じ発音で「赤ん坊」を意味するフランス語 bébé[注釈 2]とかけて「BB(ベベ)」が愛称となる。猫のような目にぼてっとした唇が愛らしく「フランスのマリリン・モンロー」とも形容され、20世紀のヨーロッパを代表するセックス・シンボルであった。
母は専業主婦。幼少期の多くをイタリアで過ごし、ファッションとダンスが好きな人物であった。
父のルイは、「バルドー」というガス会社を経営をしていた。詩人でもあり詩集を出版しアカデミー・フランセーズの賞を受賞している。映画、演劇、雑誌のディレクターと親しい付き合いがあった。映画が好きで自分でも8ミリカメラで撮影していた。ルイが37歳の時にアンヌ・マリー・ムセルと結婚する。
1938年の5月5日にはブリジットの妹、マリー・ジャンヌが生まれた。マリー・ジャンヌは、のちにミジャヌー・バルドーという芸名で、1956年から女優の活動をしていた。1970年に女優業から退き、家具の制作をしている。1960年代に俳優パトリック・ボーショーと結婚し娘が一人いる。
1948年、フランス国立高等音楽院に受かった。150人中10人の中に選ばれた。ブルターニュ地域圏レンヌでクリスチャン・ホワのエトワール・バレエの劇団に参加する。
1949年、雑誌のディレクターを務めるエレーヌ・ラザレフとブリジットの母が親友であったことから、女性向けファッション雑誌『Elle』のフッションモデルを15歳で務める。皆に気に入れられ『Elle』の表紙を務め、雑誌のマスコットになった。
映画監督マルク・アレグレは、雑誌を見てブリジットと会うことを求めたが、ブリジットの両親は、彼女が女優になることに反対した。祖父が彼女を信じて遣らせる事を進め、マルク・アレグレのアシスタント監督(当時)を務めていたロジェ・ヴァディムが手掛けた映画『Les lauriers sont coupés』に出演した。結果的にその映画が上映されることはなかったが、この映画のために行われたオーディションがロジェ・ヴァディムとブリジットを結びつける恋のきっかけとなった。
ブリジットの両親はロジェ・ヴァディムとの交際に反対し、ブリジットはイギリスで勉強する事になる。成人を過ぎてから戻るように言われるがブリジットは拒否した。その夜、家族でショーを見に行く予定だったがブリジットだけは頭痛を理由に行かず、キッチンのガスを開いて自殺しようとした。ショーが中止になり早く戻ってきた家族は、ブリジットが意識不明になっているのを発見。意識が戻ったブリジットはイギリスに行く事を断念するよう父に懇願する。父親は18歳まで結婚しない事を条件にイギリス行きを撤回した。
1952年12月21日、ブリジットの父はロジェ・ヴァディムと18歳になったブリジットとの結婚を許し、二人は結婚する。
1956年、ヴァディムの監督作品『素直な悪女』で、男達を翻弄する小悪魔を演じ、セックス・シンボルとして有名になった。『素直な悪女』の撮影中、共演者のジャン=ルイ・トランティニャンと恋に落ち、のち(1957年12月6日)にヴァディム監督と離婚。ジャン=ルイも女優で妻のステファーヌ・オードランと別れた。このジャン=ルイとのスキャンダルで「自堕落な女」「自由気まま」と形容されるようになった。
1959年、ジャック・シャリエと仕事し関係を持ち、子供ができる。1959年6月20日、ジャック・シャリエと再婚する(1962年11月20日離婚)。
ブリジット・バルドー(1965年)1966年7月14日、ギュンター・ザックスと結婚。
歌手としての活動もあり、1967年にはセルジュ・ゲンスブールの提供による「Harley Davidson(ハーレイ・ダビッドソン)」、「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」、「Bonny and Clyde(ボニーとクライド)」などを歌った。
1968年初頭には、ゲンスブールとの連名のアルバム『ボニーとクライド』も発表している。当時ギュンター・ザックスと結婚していたバルドーは、ゲンスブールと不倫の関係にあったが、「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」はそれを露骨に示す。
この歌はバルドーとゲンスブールのデュエットに加え、バルドーによるあえぎ声の演技を含んでいる。そのことからバルドーはこの歌のリリースを拒否、ほどなくゲンスブールとの関係も円滑でなくなり男女関係解消。
1963年1969年10月1日、ギュンター・サックスと離婚する。ロンドンに行きビートルズのジョン・レノンと対面する。ジョンにギターを渡し「何か弾いてちょうだい」と発言し、大ファンだったジョンは応じたという。
1973年、「L'Histoire très bonne et très joyeuse de Colinot trousse-chemise(スカートめくりのコリノのとても素敵なとても楽しい物語)」(日本未公開)を最後に引退宣言して動物愛護活動に専念する。
1982年、シングルレコード「Toutes les bêtes sont à aimer(全ての動物は愛す為にいる)」をリリースする。
1992年8月16日、ベルナー・ドルマルと結婚。
2009年、動物の倫理的扱いを求める人々の会、通称PETAの会員で、同会の広告塔であるバルドーは、「カナダのアザラシ猟に対する抗議活動」として、カナダ産メイプルシロップのボイコット運動を行っている。
2011年、日産MOCOのCMソングに、ブリジット・バルドー本人が歌う「Ça Pourrait Changer」が使われた[4]。
2018年1月17日、#MeTooについて「女優たちの売名行為。偽善的でばかげている」と批判した[5]。
2025年12月28日、サントロペのラ・マドラグ(フランス語版)にある自宅で死去。91歳没[6]。
主な出演作品

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享年91歳 、誕生日 1934年9月28日、命日 2025年12月28日
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ブリジット・バルドー(フランス語: Brigitte Bardot, 1934年9月28日 - 2025年12月28日)は、フランス・パリ15区[1]出身の女優、ファッションモデル、歌手、動物保護活動家である。頭文字が B.B.[注釈 1]であることから、同じ発音で「赤ん坊」を意味するフランス語 bébé[注釈 2]とかけて「BB(ベベ)」が愛称となる。猫のような目にぼてっとした唇が愛らしく「フランスのマリリン・モンロー」とも形容され、20世紀のヨーロッパを代表するセックス・シンボルであった。
来歴
ルイ・バルドー(ブリジットの父。1896年生まれ、1975年没。ピルーとあだ名が付けられていた)[2]と、アンヌ・マリー・ムセル(ブリジットの母。1912年生まれ、1978年没。トティとあだ名が付けられていた)の間に生まれる。母は専業主婦。幼少期の多くをイタリアで過ごし、ファッションとダンスが好きな人物であった。
父のルイは、「バルドー」というガス会社を経営をしていた。詩人でもあり詩集を出版しアカデミー・フランセーズの賞を受賞している。映画、演劇、雑誌のディレクターと親しい付き合いがあった。映画が好きで自分でも8ミリカメラで撮影していた。ルイが37歳の時にアンヌ・マリー・ムセルと結婚する。
1938年の5月5日にはブリジットの妹、マリー・ジャンヌが生まれた。マリー・ジャンヌは、のちにミジャヌー・バルドーという芸名で、1956年から女優の活動をしていた。1970年に女優業から退き、家具の制作をしている。1960年代に俳優パトリック・ボーショーと結婚し娘が一人いる。
1948年、フランス国立高等音楽院に受かった。150人中10人の中に選ばれた。ブルターニュ地域圏レンヌでクリスチャン・ホワのエトワール・バレエの劇団に参加する。
1949年、雑誌のディレクターを務めるエレーヌ・ラザレフとブリジットの母が親友であったことから、女性向けファッション雑誌『Elle』のフッションモデルを15歳で務める。皆に気に入れられ『Elle』の表紙を務め、雑誌のマスコットになった。
映画監督マルク・アレグレは、雑誌を見てブリジットと会うことを求めたが、ブリジットの両親は、彼女が女優になることに反対した。祖父が彼女を信じて遣らせる事を進め、マルク・アレグレのアシスタント監督(当時)を務めていたロジェ・ヴァディムが手掛けた映画『Les lauriers sont coupés』に出演した。結果的にその映画が上映されることはなかったが、この映画のために行われたオーディションがロジェ・ヴァディムとブリジットを結びつける恋のきっかけとなった。
ブリジットの両親はロジェ・ヴァディムとの交際に反対し、ブリジットはイギリスで勉強する事になる。成人を過ぎてから戻るように言われるがブリジットは拒否した。その夜、家族でショーを見に行く予定だったがブリジットだけは頭痛を理由に行かず、キッチンのガスを開いて自殺しようとした。ショーが中止になり早く戻ってきた家族は、ブリジットが意識不明になっているのを発見。意識が戻ったブリジットはイギリスに行く事を断念するよう父に懇願する。父親は18歳まで結婚しない事を条件にイギリス行きを撤回した。
1952年12月21日、ブリジットの父はロジェ・ヴァディムと18歳になったブリジットとの結婚を許し、二人は結婚する。
1956年、ヴァディムの監督作品『素直な悪女』で、男達を翻弄する小悪魔を演じ、セックス・シンボルとして有名になった。『素直な悪女』の撮影中、共演者のジャン=ルイ・トランティニャンと恋に落ち、のち(1957年12月6日)にヴァディム監督と離婚。ジャン=ルイも女優で妻のステファーヌ・オードランと別れた。このジャン=ルイとのスキャンダルで「自堕落な女」「自由気まま」と形容されるようになった。
1959年、ジャック・シャリエと仕事し関係を持ち、子供ができる。1959年6月20日、ジャック・シャリエと再婚する(1962年11月20日離婚)。
ブリジット・バルドー(1965年)1966年7月14日、ギュンター・ザックスと結婚。
歌手としての活動もあり、1967年にはセルジュ・ゲンスブールの提供による「Harley Davidson(ハーレイ・ダビッドソン)」、「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」、「Bonny and Clyde(ボニーとクライド)」などを歌った。
1968年初頭には、ゲンスブールとの連名のアルバム『ボニーとクライド』も発表している。当時ギュンター・ザックスと結婚していたバルドーは、ゲンスブールと不倫の関係にあったが、「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」はそれを露骨に示す。
この歌はバルドーとゲンスブールのデュエットに加え、バルドーによるあえぎ声の演技を含んでいる。そのことからバルドーはこの歌のリリースを拒否、ほどなくゲンスブールとの関係も円滑でなくなり男女関係解消。
1963年1969年10月1日、ギュンター・サックスと離婚する。ロンドンに行きビートルズのジョン・レノンと対面する。ジョンにギターを渡し「何か弾いてちょうだい」と発言し、大ファンだったジョンは応じたという。
1973年、「L'Histoire très bonne et très joyeuse de Colinot trousse-chemise(スカートめくりのコリノのとても素敵なとても楽しい物語)」(日本未公開)を最後に引退宣言して動物愛護活動に専念する。
1982年、シングルレコード「Toutes les bêtes sont à aimer(全ての動物は愛す為にいる)」をリリースする。
1992年8月16日、ベルナー・ドルマルと結婚。
2009年、動物の倫理的扱いを求める人々の会、通称PETAの会員で、同会の広告塔であるバルドーは、「カナダのアザラシ猟に対する抗議活動」として、カナダ産メイプルシロップのボイコット運動を行っている。
2011年、日産MOCOのCMソングに、ブリジット・バルドー本人が歌う「Ça Pourrait Changer」が使われた[4]。
2018年1月17日、#MeTooについて「女優たちの売名行為。偽善的でばかげている」と批判した[5]。
2025年12月28日、サントロペのラ・マドラグ(フランス語版)にある自宅で死去。91歳没[6]。
主な出演作品
- 1952 Les Dents longues(野心満々)結婚立会人の妻役 監督ダニエル・ジェラン
- 1953 Le Portrait de son père(彼の父の肖像)ドミノ役 監督アンドレ・ベルトミュ
- 1954 Si Versailles m'était conté… 『ヴェルサイユ語りなば』ロジェ役 監督サシャ・ギトリ
- 1954 Haine, Amour et Trahison (憎しみと愛と裏切り) アンナ役 監督マリオ・ボナールド
- 1955 Le Fils de Caroline Chérie(キャロリン・シェリーの息子)ピラー・ダロンダ役 監督ジャン・ドベーブル
- 1960 L'Affaire d'une nuit(一夜の出来事)邦題『艶ほくろ』レストランの女性役 監督 アンリ・ヴェルヌイユ
- 1963 Paparazzi『パパラッツィ』本人についてのドキュメンタリー 監督ジャック・ロジエ
- 1964 Une ravissante idiote(お人好しな素敵な娘)ペネロップ・ライトフィザー役 監督 エドゥアール・モリナロ
- 1966 Masculin féminin『男性・女性』本人役 監督ジャン=リュック・ゴダール
- 1966 Marie Soleil(マリー太陽)本人役 監督アントワーヌ・ブーセイエ
- 1973 L'Histoire très bonne et très joyeuse de Colinot trousse-chemise 『スカートめくりのコリノのとても素敵なとても楽しい物語』(日本未公開) アラベル役 監督ニナ・コンパネーズ 他、多数あり
動物愛護運動家としてのバルドーとその逸話
- 1962年、屠畜場での家畜の殺し方に不満を持ち、ペスクタリアン(肉は一切摂らずに、魚介類、乳製品、卵は摂取する)になる。「ベジタリアンになれとは言わないが一切れの苦しみと恐怖で惨く死んだ動物の肉を食べるのを控えて欲しい。中世時代より悪い !子牛の喉が開いて血まみれで肢が折れた拷問の写真を見て私は長い間泣いた。この恐ろしい血まみれの虐殺を世界で誰も告発しないのなら私がする。ビーフステーキは恐ろしい罪のない動物を苦しませた結果の死。」[7]
- 1962年1月5日に放送されたテレビ番組「Cinq colonnes à la une」においてブリジットは、屠殺用のピストルを持って次の様に語った。「食用牛を処理する際、イギリスやデンマークでは、ピストルで脳頭蓋を撃ち、神経を麻痺させて苦しみを与えないようにしています。フランスではナイフで喉をかき切って意識があるまま3、4、5分もがき苦しみながら出血により死にます。フランスでもピストルで苦しませないやり方をとるよう求めます。」[8]
- 1964年、農林水産省の大臣エドガール・ピザニがこの問題の政令にサインし、1970年には、大臣エドガール・フォールが兎と鶏も屠畜場での殺し方を人道的にする[9]。この後フランスでの屠殺の法律が厳しくなる。

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