承継
思いで

生い立ち

東京都千代田区東神田生まれで旧制・尋常小学校高等科を卒業した後、、母や姉が常磐津や長唄の芸に秀でていたことから自立を模索する。その帰り道、落ち込んで近くの十一代目片岡仁左衛門の屋敷に飛び込んだところ、番頭の伊藤に迎えられ、仁左衛門の内弟子となることを許された。雑用の合間に、黒衣を着て舞台を見たり、狂言のメモを取ったりする日々を送った。初舞台は大阪中座で、師匠に付いて「神子(かみこ)立ち入り禁止」の前説を準備したが、台詞はなかったという。

俳優一家

5人の子供のうち、長男・田村高廣、三男・田村正和、四男・田村亮の3人は俳優になった。次男の田村俊馬は実業家で、隆博や正和のマネージャーを務めた。庶子には俳優の水上泰裕がいる。田村浩二は孫にあたる。

阪妻プロダクション

阪妻は25歳で京都に阪妻プロダクションを設立した。今東光を顧問に、マキノ時代からの旧友をマキノから借り受け、映画製作を開始した。京都で2本撮影した後、奈良に戻った阪妻は、さらに2本撮影し、「雄呂血」を完成させた。この作品は、歌舞伎の立ち回りを破壊した破天荒な殺陣と、不当な権力に反発する虚無的な主人公が時代の雰囲気にマッチして大ヒットを記録した。その大胆な殺陣は「喧嘩劇場のバンツマ」と呼ばれ、一躍有名になった。阪妻プロの太秦撮影所落成。アメリカのユニバーサル社と配給提携。以後、時代劇のみならず現代劇も制作。

歌舞伎・映画界での活躍

1919年、坂爪は国際活動映画に入社し、カメラマンとして働くことになる。伝統や伝統を重んじる演劇の世界とは異なる、アクション写真の分野に新しい世界を見出したのである。沢村四郎五郎や実川丸十郎に頼み、昼間はアクション写真の仕事をし、夜は芝居をする。1920年、6月に松竹キネマ蒲田撮影所が設立されると、實川松十郎とともに松竹キネマに入社。しかし、その後まもなく森要が退社すると、坂爪は国活に戻り、1923年7月に「島のつか」(江田正洋監督)に給仕役で出演するまで無名のままであった。玉置歌子は当時、彼についてこう語っている。「多くのエキストラの中で非常に目立っていたので、すぐにわかりました。細くて背が高く、首が一段と出ていて、色は白を通り越して青に近い」と語っている。海外から帰国した1922年には、歌舞伎の「本朝二十四部作」に出演している