この追悼サイトは、 アンリ・バルビュス(フランスの作家) ジャーナリスト、反戦・平和運動家さまのために作成されました。
享年62歳 、誕生日 1873年5月17日、命日 1935年8月30日
※ アンリ・バルビュス(フランスの作家)さんへのメッセージ投稿や、写真アルバムの共有はサインインで可能になります。
アンリ・バルビュス(Henri Barbusse、1873年5月17日 - 1935年8月30日)は、フランスの作家、ジャーナリスト、反ファシズム・反戦・平和運動家、共産主義者。自然主義・写実主義のロマン・ノワール『地獄』、ゴンクール賞を受賞した戦争小説『砲火』により作家として揺るぎない地位を築いた後、国際反戦・平和運動「クラルテ」を結成し、機関誌『クラルテ』および後続誌として文学、芸術、科学、経済、社会問題の総合雑誌『モンド(フランス語版)(世界)』を創刊・主宰した。
1923年に共産党に入党し、機関紙『リュマニテ』紙の文芸欄編集長を務めるほか、国際革命作家同盟 (UIER) のフランス支部として1932年に結成された革命作家芸術家協会の機関誌『コミューン(フランス語版)』の編集委員などを歴任。1932年にロマン・ロランとともに国際反戦会議を招集し、世界29か国から2,196人の知識人が参加した(アムステルダム=プレイエル運動(フランス語版))。1935年にはロマン・ロラン、アンドレ・ジッド、アンドレ・マルローらとともにファシズムから文化を守ることを目的とした第1回文化擁護国際作家会議(フランス語版)を主催した。
自然主義小説「地獄」
オワーズ県オーモン=アン=アラットのアンリ・ バルビュス博物館《シルヴィ邸》
享年62歳 、誕生日 1873年5月17日、命日 1935年8月30日
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アンリ・バルビュス(Henri Barbusse、1873年5月17日 - 1935年8月30日)は、フランスの作家、ジャーナリスト、反ファシズム・反戦・平和運動家、共産主義者。自然主義・写実主義のロマン・ノワール『地獄』、ゴンクール賞を受賞した戦争小説『砲火』により作家として揺るぎない地位を築いた後、国際反戦・平和運動「クラルテ」を結成し、機関誌『クラルテ』および後続誌として文学、芸術、科学、経済、社会問題の総合雑誌『モンド(フランス語版)(世界)』を創刊・主宰した。
1923年に共産党に入党し、機関紙『リュマニテ』紙の文芸欄編集長を務めるほか、国際革命作家同盟 (UIER) のフランス支部として1932年に結成された革命作家芸術家協会の機関誌『コミューン(フランス語版)』の編集委員などを歴任。1932年にロマン・ロランとともに国際反戦会議を招集し、世界29か国から2,196人の知識人が参加した(アムステルダム=プレイエル運動(フランス語版))。1935年にはロマン・ロラン、アンドレ・ジッド、アンドレ・マルローらとともにファシズムから文化を守ることを目的とした第1回文化擁護国際作家会議(フランス語版)を主催した。
ジャーナリズム
1899年から1902年までジャン・デュピュイ(フランス語版)農務相(フランス語版)の補佐官を務めたが[1][4]、この期間以外はもっぱらジャーナリストとして多くの新聞・雑誌に演劇評論や短編を寄稿し、特に当時数々の大衆雑誌を主宰していたピエール・ラフィット(フランス語版)が創刊・主宰した『ジュ・セ・トゥー(フランス語版)(私は何でも知っている)』誌(探偵小説、冒険小説、空想科学小説、とりわけ、モーリス・ルブランの「アルセーヌ・ルパン」シリーズやコナン・ドイルの作品で人気を博した雑誌)[11]、主にブルジョワ階級の女性を対象とし、フェミナ賞の名前の由来となった『フェミナ(フランス語版)』誌[12]、スポーツ雑誌『ラ・ヴィー・オ・グランテール(フランス語版)(野外生活)』[13]などの作家・記者として名を成した。これらの雑誌に掲載された作品は第一次大戦を挟んで1914年から22年に発表された短編集『我々他の者たち』、『幻想』、『心の片隅』、『異国の女』に収められている(著書参照)。自然主義小説「地獄」
1903年に最初の小説『哀願する人々』、1908年にゴンクール賞候補作となった代表作『地獄』を発表し、作家として揺るぎない地位を築くことになった[4]。『地獄』は、パリの下宿に住む厭世的な詩人が自室の壁の穴から覗き見した病人、老人、同性愛者などの私生活を描いた作品であり、エロティシズムを含む人間の暗い情念に焦点を当てたエミール・ゾラ風の自然主義小説、写実主義[14]、あるいはペシミズムを基調とするユイスマンス、ミルボー風のロマン・ノワールである 戦争小説『砲火』
1914年に第一次世界大戦が勃発し、同年8月2日に発せられた総動員令(Mobilisation française de 1914)では20歳から38歳の健康な男性を兵役に服させることを定めていたにもかかわらず[17][18]、41歳でもともと肺が弱かったバルビュスが、同日、即座に志願した[15]。1914年8月9日付『リュマニテ』紙に掲載された同紙編集長宛のバルビュスの手紙には、「予備兵とされたが、前線で戦うことを希望し、まもなく一歩兵として出発する。… この戦争は社会戦争であって、… 軍国主義と帝国主義に対する闘いである。… 自分の命を犠牲にしたとしても、また、喜んで戦地に赴くのであれば、それはフランス人としてのみならず、人間としてである」と書かれている(1920年刊『戦士のことば』所収)[19]。 バルビュスは17か月にわたって兵役に就いた。うち、11か月は一兵士、次いで衛生兵として前線で戦ったが、病に倒れ、参謀本部事務局、さらに野戦病院に勤務した[1]。この間の体験を妻に書き送り、これをもとに小説『砲火』を執筆した。これをジャーナリストのギュスタヴ・テリー(フランス語版)が戦時中の検閲に抵抗して、1916年、自ら主宰する新聞『ルーヴル(フランス語版)』に連載し[20][21][22][23]、同年、フラマリオン社(フランス語版)から刊行され[24]、ゴンクール賞を受賞した[22][23]。 クラルテ運動・共産主義
1919年、次の戦争小説『クラルテ(光明)』を発表し、知識人の国際反戦・平和運動「クラルテ」を結成。機関誌『クラルテ』を刊行、編集長を務めた。この運動は、当時パリ法科大学で学んでいた小牧近江が参加し、帰国後の1921年にこの影響を受けた文学・思想雑誌『種蒔く人』を創刊したことで日本で広く知られることになった[31][32][33]。彼は1924年にバルビュスの『クラルテ』の邦訳を発表しているが、小林多喜二も同じ1924年に同人雑誌『クラルテ』を創刊し、主宰するなど[34]、日本における国際主義、反軍国主義、ひいてはプロレタリア文学運動の基盤となった[33]。バルビュスはフランス国内の反戦・平和運動、共産主義運動だけでなく、人権の侵害、抑圧、ファシズムに反対し、平和と自由を守るための世界各国の運動に参加し、米国の移民労働者ニコラ・サッコとバルトロメオ・ヴァンゼッティの冤罪事件(サッコ・ヴァンゼッティ事件)や労働運動の指導者トマス・ムーニー(英語版)の冤罪事件(ムーニー事件)における処刑に反対する運動、ドイツの共産党員ヴィリー・ミュンツェンベルクの国際労働者救援会(ドイツ語版)やインドの独立を支持する委員会(Comité pro-hindou)[59]、イタリア、ドイツのファシズム(ナチズム)の影響を受けた、バルカン諸国における権威主義・全体主義体制を批判する「白い(王党派)恐怖政治の犠牲者擁護委員会」(バルカン諸国での調査の後、1926年に結成)に参加し[60][61]、ファシスト党・ムッソリーニ政権を批判した社会主義者ジャコモ・マッテオッティの暗殺を糾弾するなど積極的な反ファシズム運動を展開し、国際的な影響力を有することになった[61]。バルビュスのこうした活動については日本の社会主義の雑誌『改造』にも記事が掲載された[61]。
翌1933年の第2回反帝国主義戦争世界会議はパリ8区のサル・プレイエルで開催され、以後、アムステルダム=プレイエル運動(フランス語版)と称された。この会議の参加者は1934年結成の反ファシズム知識人監視委員会、1935年6月にファシズムから文化を守ることを目的に、バルビュス、ロマン・ロラン、マルロー、ジッド、アラゴンらを中心に開催された第1回文化擁護国際作家会議(フランス語版)(ソ連からイリヤ・エレンブルグ、イサーク・バーベリ、ドイツからハインリヒ・マン、ベルトルト・ブレヒト、アンナ・ゼーガース、オーストリアからローベルト・ムージル、英国からオルダス・ハクスリーらが参加)[67]にも参加し、同年の人民戦線の結成につながった。
同じ1935年の8月30日、バルビュスはモスクワ訪問中に急性肺炎により62歳で死去した[6][14]。
国際反戦会議 - アムステルダム=プレイエル運動
さらにロマン・ロランとともに「反ファシズム国際委員会(Comité antifasciste international)」を結成し[62]、世界各国の知識人に「国際反戦会議(Congrès mondial contre la guerre)」の開催を呼びかけた。当初は1932年7月にジュネーヴで開催される予定であったが、最終的に「反帝国主義戦争国際会議」として同年8月にアムステルダムで開催され[63]、フランスからバルビュス、ロマン・ロランのほか物理学者ポール・ランジュヴァン(1934年結成の反ファシズム知識人監視委員会副会長)、『リュマニテ』紙編集長を務めた共産党員のマルセル・カシャン(フランス語版)、ソ連から作家のマクシム・ゴーリキー(1934年にソビエト連邦作家同盟を結成)、全ソ労組中央評議会第一書記のニコライ・シュヴェルニク、ドイツからミュンツェンベルク、女性解放運動家・ドイツ共産党員のクララ・ツェトキン、反ナチズムの作家ハインリヒ・マン(フランスに亡命)、米国に亡命していたノーベル物理学賞受賞者アインシュタイン、英国から哲学者バートランド・ラッセル(1950年にノーベル文学賞受賞)、米国から社会主義または共産主義の作家セオドア・ドライサー、ジョン・ドス・パソス、アプトン・シンクレア、日本から(モスクワに滞在していた)片山潜らをはじめとし[64][65]、世界29か国から2,196人が参加する大規模な反戦会議となった[64][65][66]。参加者2,196人の内訳は共産党員830人、社会党員291人、左翼社会党員24人、左翼反対派(共産主義者)10人、無所属1,041人であり[66]、ロマン・ロランは思想的・社会的立場の異なる団体の団結を呼びかけ[64]、バルビュスは開会演説で、「セクト主義をはなれて、帝国主義戦争反対の闘争という根本思想に導かれた」討論によって、本会議を超党派的な反戦・反ファシズム・平和運動につなげたいとした[64]。翌1933年の第2回反帝国主義戦争世界会議はパリ8区のサル・プレイエルで開催され、以後、アムステルダム=プレイエル運動(フランス語版)と称された。この会議の参加者は1934年結成の反ファシズム知識人監視委員会、1935年6月にファシズムから文化を守ることを目的に、バルビュス、ロマン・ロラン、マルロー、ジッド、アラゴンらを中心に開催された第1回文化擁護国際作家会議(フランス語版)(ソ連からイリヤ・エレンブルグ、イサーク・バーベリ、ドイツからハインリヒ・マン、ベルトルト・ブレヒト、アンナ・ゼーガース、オーストリアからローベルト・ムージル、英国からオルダス・ハクスリーらが参加)[67]にも参加し、同年の人民戦線の結成につながった。
同じ1935年の8月30日、バルビュスはモスクワ訪問中に急性肺炎により62歳で死去した[6][14]。
- 注:このサイトは、アンリ・バルビュスに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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