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この追悼サイトは、 朝岡 雪路(女優・歌手・舞踊家)さまのために作成されました。

享年82歳 、誕生日 1935年7月23日、命日 2018年4月27日
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朝丘 雪路(あさおか ゆきじ、1935年昭和10年〉7月23日[1] - 2018年平成30年〉4月27日[4])は、日本女優タレント舞踊家歌手司会者。本名:加藤 雪会(かとう ゆきえ)、旧姓・勝田。

東京市京橋区(現・東京都中央区)築地生まれ。元宝塚歌劇団月組娘役。父は日本画家の伊東深水[3]。夫は津川雅彦、娘は真由子。義兄は長門裕之、義姉は南田洋子。日舞の深水流家元として、深水 美智雪の名を持つ。遠戚に宮川大輔がいる。

山脇学園中学校卒業後、宝塚音楽学校に入学。1952年同校を卒業し、宝塚歌劇団に入団。宝塚入団時の成績は31人中8位[5]。同期の39期生には女優の真帆志ぶき(元雪組男役トップスター)、東千代之介夫人の千之赫子がいる。月組[5] に在籍し娘役として活動。 1955年8月31日[5] に宝塚歌劇団を退団。最終出演公演の演目は月組公演『黄色いマフラー[5]』。

1966年4月から『11PM』の金曜日のホステスを16年間務め、大橋巨泉との名コンビで人気を集めた。

1967年青森県八戸市の内科医師と結婚、男児をもうける。1968年離婚(正式な離婚成立は1972年、子供は夫側が引き取る)。1973年津川雅彦と再婚。1974年3月真由子を出産。

お嬢様育ちのおっとりしたキャラクターと常識外れな天然発言が人気を集め、バラエティ番組に多数出演[1]。後に深水流家元として、青二塾で日舞の講師を勤めた[6]

1981年、文化庁芸術祭賞優秀賞受賞。2003年、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2011年、旭日小綬章受章[7]

2014年、古巣・宝塚歌劇団の100周年記念で創立された『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして殿堂入り。これと前後して4月9日から13日まで夫・津川雅彦と娘・真由子との家族共演で行われた舞台『花や…蝶や…』に出演したが、これを最後に病気療養生活に入る
2018年4月27日、アルツハイマー型認知症のため、東京都東京23区の病院にて82歳で死去した。

出演[編集]250px-Jazz-Musume-Kanpai-1.jpgジャズ娘乾杯』(1955年)映画[編集]
音楽[編集]NHK紅白歌合戦出場歴[編集]1957年・第8回に初出場。翌年は出場ならなかったものの、翌々年(1959年)・第10回で復帰し、そこから1966年・第17回まで8年連続で出場を果たす。その後しばらく出演は無かったものの、1971年になかにし礼作詞・筒美京平作曲の『雨がやんだら』が大ヒット。第22回で5年ぶり10回目のカムバック出場を果たしたが、この第22回出場が最後の紅白出場となった。

年度/放送回回曲目出演順対戦相手備考1957年/第8回星はながれる07/25若原一郎初出場1959年/第10回2シング・シング・シング04/25武井義明2年ぶりカムバック1960年/第11回3ドンパン節06/27旗照夫1961年/第12回4チャチャで飲みましょ01/25神戸一郎トップバッター1962年/第13回5島育ち13/25三波春夫1963年/第14回6永良部百合の花12/25田端義夫1964年/第15回7夜の八丈島01/25北島三郎トップバッター1965年/第16回8ハロー・ドーリー10/25立川澄人1966年/第17回9ふり向いてもくれない21/25バーブ佐竹8年連続で出場1971年/第22回10雨がやんだら13/25フォーリーブス5年ぶりカムバック

主なヒット曲 雨がやんだら  グッドバイマイラブ  ごめんなさい  あなたが欲しい赤坂の夜は更けて 別れのスナック 追いかけないで 私は生きる 私が今欲しいものお別れしましょう また逢う日まで さいはて慕情 あなたのいない夜 二人でお酒を 海を見るなら さよならの季節 ワンレイニーナイトイントー 知りすぎたのね マイウエイ 生まれたままで 愛の裁き 朝まで待って 何があなたをそうさせた    etc.
                                   朝丘雪路 舞踊のおけいこ1 [VHS]

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     朝岡雪路の父、日本画家「伊東深水」の絵  <菊を活ける>

※注:このサイトは、朝岡雪路に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝
このメッセージは、 2023年9月12日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
「11PM」の金曜日のホステスを16年間務め、大橋巨泉との名コンビで人気を集めたお喋りは、まるで音楽を聴いているような心地よさでした。  合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2023年9月12日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
「11PM」の金曜日のホステスを16年間務め、大橋巨泉との名コンビで人気を集めたお喋りは、まるで音楽を聴いているような心地よさでした。  合掌
軌跡

(生い立ち)

料亭「勝田」女将の勝田麻起子の娘として生まれる。芸事を好んだ母の勧めで、3歳より日本舞踊を花柳三之輔に師事。妾腹(非嫡出子)ではあるが父の伊東深水に溺愛され育つ。泰明小学校へは養育係とともに人力車で通学しており、養育係は登校から下校までの間、彼女を車屋と学校で待っていた。深水の過保護ぶりは朝丘が思春期を迎えても続いていた。それを見聞きしていた友人、小林一三に「このような浮世離れした生活をさせていては、娘さんがだめになる」と意見されたこともあり、深水は渋々ながらも、朝丘がいずれは実家を出て生活することを了承したという。

(子供時代)

深水の常軌を逸した溺愛を一身に受けて成長。世間知らずのお嬢様育ちで、一般常識というものがよく分からずまさに浮世離れした人格である[1]。幼少期から自宅と学校の行き帰りは勿論、何処に出掛けるにも養育係と一緒であったため、金銭の使い方や道順を覚えるということを知らないまま成長した。膳に並んだシラスを見て「おとと(御魚)の目が怖い」と言えば爺やと婆やが魚の目をひとつひとつ取り除く。雨が降れば一般では傘を使用するが、深水は「(朝丘の)指を怪我したら大変だ」と傘の開閉も、持たせることもさせない。その結果、中学生時代に、ほんの気まぐれで、一人で通学を試みたが途中で迷子になってしまい大騒ぎになったことがある。生涯、一人では公共交通に乗って移動することも、切符の購入も出来なかった。しかし、物心つく前からそのような環境で育ったため朝丘にとっては普通の生活であり「父のすることは全て正しい」と信じ、疑問に感じたことはなかったという。

また「(両親が)海は危険だと言っていた」との言いつけを守っていた(ただし、芸能界に入ってから撮影で足を浸す程度に入ったことはある)。夏休みには親が用意したホテルのスイートに宿泊し、プールを貸切にして友人たちと過ごした。

戦時中は群馬県磯部温泉に疎開した。

(宝塚時代)

浮世離れで世間知らずな言動と、おっとりした性格が仇となったことがある。宝塚時代もその性格は変わらず、朝丘の至らぬところは周囲が補ってくれていた。しかし、それらも朝丘にとっては実家に居たときと同様、当たり前のことだと思っていたため特に気にも留めずにいた。やがて娘役に抜擢されて人気も出てくると、朝丘に対して反感を覚える者も出てきた。ある時は舞台で使用する化粧品が紛失、ある時は衣装に不備が生じる。靴の中に剣山や釘が仕込まれていたこともある。幕間の衣装替えの時、靴を履き替える際に気付かずに踏んでしまい激痛で失神したことがある。
報告

(結婚後)

イーライフ宇崎勝さんが2023年9月12日に投稿
結婚するまで自分でお金を払って買い物をした経験が全くなく、結婚してからは買い物はすべて1万円札で支払っていた。そのため、お釣りの千円札や硬貨が溜まりに溜まり、ある日、薬を探していた津川が引き出しから小銭の山を発見して仰天する(本人は硬貨がお金とは知らず、無論、金銭感覚も一般とズレていたため、言われるままに多く支払っており、常に一緒に行動する付き人が注意を払っていたという)。

家事の一切も苦手であり「火が怖い」「洗濯機が使えない」「掃除機の使用方法が分からない」ほどであった。

娘が乳児だった頃もオムツ替えは家政婦に任せており、生涯、家事全般を事務所のスタッフと家政婦が代行していた(津川が思わず「我が家には主婦がいないんだねぇ」と呟いた際には「私も家事の出来る奥さんが欲しいわ」とあっさり言ってのけたという)。