承継
この追悼サイトは、 上杉 鷹山(江戸中期の大名・名君と謂われた)さまのために作成されました。

享年70歳 、誕生日 1751年9月9日、命日 1822年4月2日
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上杉 鷹山(うえすぎ ようざん、寛延4年7月20日1751年9月9日) - 文政5年3月11日1822年4月2日))は、江戸時代中期の大名出羽国米沢藩9代藩主。山内上杉家25代当主。は初め勝興、後に治憲(はるのり)であり、鷹山は藩主隠居後の号であるが、この名で知られる[2]。米沢藩政改革を行った江戸時代の名君として知られる。

生涯[編集]誕生から襲封まで[編集]寛延4年7月20日1751年9月9日)、日向高鍋藩秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれる。幼名は松三郎。実母が早くに亡くなったことから一時、祖母の瑞耀院(豊姫)の手元に引き取られ養育された。宝暦9年(1759年)、この時点でまだ男子のなかった上杉重定に、我が孫ながらなかなかに賢いと、幸姫の婿養子として縁組を勧めたのが、重定の叔母にあたる瑞耀院である。

宝暦10年(1760年)、米沢藩主上杉重定の養嗣子となって桜田の米沢藩邸に移り、直松に改名する。宝暦13年(1763年)より尾張国出身の折衷学者細井平洲を学問の師と仰ぎ、明和3年(1766年)に元服勝興(かつおき、通称:直丸)と称す。また、世子附役は香坂帯刀と蓼沼平太が勤める。江戸幕府10代将軍徳川家治偏諱を受け、治憲と改名する明和4年(1767年)に家督を継ぐ。

上杉家は、18世紀中頃には借財が20万(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積する一方、石高が15万(実高は約30万石)でありながら、会津120万石時代の家臣団6千人を召し放つことをほぼせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れず、このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かった。そのため、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていた。深刻な財政難は江戸の町人にも知られており、「新品の金物の金気[注釈 1]を抜くにはどうすればいい? 「上杉」と書いた紙を金物に貼れば良い。さすれば金気は上杉と書いた紙が勝手に吸い取ってくれる」といった洒落巷談が流行っていたほどである。

加えて農村の疲弊や、宝暦3年(1753年)の寛永寺普請による出費、宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を直撃した。名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであった。
天明年間には天明の大飢饉東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行った。また、曾祖父綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校興譲館山形県立米沢興譲館高等学校のルーツ)として細井平洲神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。

安永2年6月27日1773年8月15日)、改革に反対する藩の重役が、改革中止と改革推進の竹俣当綱派の罷免を強訴し、七家騒動が勃発したが、これを退けた。

これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。

天明5年(1785年)、専横が目立った竹俣を罷免し、同時に家督を前藩主重定の実子(治憲が養子となった後に生まれた)で治憲が養子としていた治広に譲って隠居した。この後、逝去まで後継藩主を後見し、隠居すると初めは重定隠居所の偕楽館に、後に米沢城三の丸に建設された餐霞館が完成するとそちらに移る。この後の藩政改革は家老莅戸善政を中心に財政支出半減と産業振興をはかった寛政の改革(寛三の改革)と呼ばれる。

享和2年(1802年)、剃髪し、鷹山と号す[注釈 2]。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山(しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われる。莅戸善政が没すると、その子莅戸政以が家督を継ぎ、享和・文化改革と呼ばれる改革を行った。

文政5年3月11日1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去した。享年72(満70歳没)。法名は元徳院殿聖翁文心大居士、墓所は米沢市御廟の上杉家廟所。初め、上杉神社に藩祖謙信と共に祭神として祀られたが、明治35年(1902年)に設けられた摂社松岬神社に遷され、現在に至る。

伝国の辞(でんこくのじ)は、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した、3条からなる藩主としての心得である。

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候      一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候         一、国家人民の為に立たる君にして君の為に立たる国家人民にはこれ無く候右三条御遺念有間敷候事天明五巳年二月七日  治憲 花押治広殿  机前                                                                                                            
      250px-Uesugi-Yozan_statue.jpg  上杉神社に立つ銅像
         上杉家廟所1   上杉家廟所
          上杉謙信をはじめ米沢藩代々の藩主が眠っています。 上杉景勝が亡くなった元和9年(1623年)より上杉家の御廟所とされました。以後、歴代の藩主が埋葬されてきました。
 明治6年の米沢城解体に伴い、米沢城に安置されていた上杉謙信の遺骸も、明治9年、御廟所へ移されました。

※注:このサイトは、上杉鷹山に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2024年4月6日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
洪水や大飢饉で破綻寸前に陥っていた藩財政を、非常食の普及や、藩士・農民の倹約の奨励などの対策に努めて立ち直らせた名君であった。    合掌

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このメッセージは、 2024年4月6日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
洪水や大飢饉で破綻寸前に陥っていた藩財政を、非常食の普及や、藩士・農民の倹約の奨励などの対策に努めて立ち直らせた名君であった。    合掌