承継
この追悼サイトは、 新島 八重(教育者・茶道家、同志社創立者・新島襄の妻)さまのために作成されました。

享年86歳 、誕生日 1845年12月1日、命日 1932年6月14日
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新島 八重(にいじま やえ〈やゑ〉、弘化2年11月3日1845年12月1日) - 昭和7年(1932年6月14日)は、江戸時代末期(幕末)から昭和初期の日本教育者茶道家同志社創立者の新島襄の妻として知られる。旧姓は山本。一部の手紙などでは「八重子」と署名してあることから、史料によっては新島 八重子と書かれる場合もある。勲等勲六等宝冠章皇族以外の女性としてはじめて政府より受勲した人物である[2]

生涯[編集]会津時代[編集]弘化2年(1845年)、会津藩の砲術師範(禄高は22石4人扶持[3])であった山本権八佐久夫妻の子として誕生する[4]慶応元年(1865年)、但馬出石藩出身で藩校日新館の教授を務めていた川崎尚之助と結婚。慶応4年/明治元年(1868年)に会津戦争が始まると、鉄砲を主力に戦うべきと考え、刀や薙刀で戦うとした婦女隊には参加せず[5]、断髪・男装して家芸であった砲術をもって奉仕し鶴ケ城籠城戦では自らもスペンサー銃を持って奮戦した[1]。会津藩にはスペンサー銃は八重が所持する1挺しかなく、スペンサー銃専用の銃弾の備蓄はなかった[6]。八重は自らが入城時に持ち込んだスペンサー銃専用の銃弾100発のみで戦った[7]。八重は優秀な射手であり、薩摩藩二番砲兵隊長だった大山厳を狙撃して戦線離脱の重傷を負わせたと言われている。敗戦後、捕虜となった夫と生き別れる。なお、かつては会津籠城戦前に離婚したとされていたが、実際に離婚手続きが取られたのは明治4年(1871年旧暦12月のことである[8]

明治3年(1870年)、夫・尚之助に教えを受けた米沢藩士・内藤新一郎の世話で、1年ほどを米沢で過す[9]

京都時代[編集]明治4年(1871年)、京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って上洛する。翌年、兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となる。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが裏千家13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになる。兄の著書の出版支援も行っていた[10]

兄の元に出入りしていたアメリカン・ボードの準宣教師・新島襄と知り合い、明治8年(1875年)10月に婚約する。当時、新島のキリスト教主義学校建設を阻止しようと町の僧侶・神官たちが連日のように抗議集会を開き、京都府知事文部省に嘆願書を提出するなどし圧力をかけていたため、京都府は婚約直後に八重を女紅場から解雇した[11]

明治9年(1876年1月3日にアメリカン・ボードの宣教師ジェローム・デイヴィスの司式により再婚した[12]。 女紅場に勤務していたときの経験を生かし、同志社の運営に助言を与えた。欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦であったという。しかし夫をかしずかせ、車にも夫より先に乗る姿を見た当時同志社の学生だった徳富蘇峰は彼女にというあだ名をつけ世間からは「悪妻」と評された[13]。 しかし夫婦仲はとても良く、夫の襄はこの時期にアメリカの友人への手紙で「彼女の生き方はハンサムなのです。」と書いている[13]

明治9年(1876年)11月より、アメリカン・ボードの宣教師アリス・スタークウェザーと共に旧柳原邸に同志社女学校(後の、同志社女子大学)を開設した。

襄の死から間もない明治23年(1890年)4月26日、八重は日本赤十字社の正社員となり、明治27年(1894年)の日清戦争では、広島の陸軍予備病院で4か月間篤志看護婦として従軍[16]。 40人の看護婦の取締役として、怪我人の看護だけでなく、看護婦の地位の向上にも努めた。明治29年(1896年)、その時の功績が認められ、勲七等宝冠章が授与された[16][17]。 日露戦争当時の赤十字看護婦の中に八重の写真がある[18]。その後、篤志看護婦人会の看護学修業証を得て看護学校の助教を務め、明治37年(1904年)の日露戦争時には、大阪陸軍予備病院で2か月間篤志看護婦として従軍し、その功績によって勲六等宝冠章が授与された[16]

明治40年(1907年)11月に新島旧邸を同志社に寄付する。

晩年[編集]八重は多くの功績により昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を下賜されたが、その4年後、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて死去。86歳没。葬儀は徳富蘇峰の協力により「同志社社葬」として執り行われ4,000人もの参列者があった。

墓所は、京都市左京区鹿ケ谷若王子山町の京都市営若王子墓地内同志社墓地で、襄の墓の隣にある。八重の遺言により、墓碑銘は蘇峰が筆を執った[15]
                   (新島八重逸話)
数少ない記述のある『会津戊辰戦争』によると、八重の数え13歳の逸話として「子供の時から男子の真似(まね)が好きで、米四斗俵(60キロ)を自由に四回まで肩に上げ下げした」とある。 数え13歳といえば、現在の小学6年生に相当する年齢。

※注:このサイトは、新島八重に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2024年3月10日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
会津戦争では自らスペンサー銃と刀を持って戦った。 又、日清戦争・日露戦争では看護婦として従軍し、看護婦の取締役として活躍した。  傑出した女性であった。        合掌

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このメッセージは、 2024年3月10日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
会津戦争では自らスペンサー銃と刀を持って戦った。 又、日清戦争・日露戦争では看護婦として従軍し、看護婦の取締役として活躍した。  傑出した女性であった。        合掌