この追悼サイトは、 甲斐 和里子 (京都女子大学の前身、顕道女学院の創始者)さまのために作成されました。
享年94歳 、誕生日 1868年6月15日、命日 1962年11月27日
※ 甲斐 和里子さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
甲斐 和里子(かい わりこ、1868年(慶応4年)6月15日 - 1962年(昭和37年)11月27日)は、日本の教育者。京都女子大学の前身、顕道女学院の創始者。旧姓・足利。
明治初期の日本には各地でミッションスクールが創設されたが、仏教系の女子学校はほとんどなく、仏教精神の根ざした女子校が必要と教師の資格を得るため1893年、26歳で同志社女学校(同志社女子大学の前身)英語専科へ入学。1896年同校退学。同年甲斐駒蔵と結婚[3]。1897年、神戸市立親和女学校(神戸親和女子大学の前身)、滋賀県大津高等女学校(滋賀県立大津高等学校の前身)に教員として勤務。
1899年、松田甚左衛門の助力を得て、仏教徒のための女学校「顕道女学院」を創設。翌1900年、夫と共に私塾文中園(同年11月、文中女学校と改称)を開設した。1910年、同校は西本願寺の援助を受けて京都高等女学校と合併、連合本部が経営主体となるが、和里子は1927年に退職するまで教員として教壇に立ち学生らの指導にあたった。
1962年(昭和37年)、95歳で死去。
甲斐和里子(旧姓 足利)は、1868(慶応4)年、備後国安那郡西中条村(現・広島県福山市神辺町西中条)の勝願寺で、父・足利義山、母・早苗の五女として生まれました。父の義山は、京都にある西本願寺を代表する仏教の高名な学者でした。お念仏を聴いて育った和里子は、女性の社会的地位を向上させるためには、仏教の教えに基づいた女子教育が必要であると考えました。そして、1899(明治32)年、仏教を教えとする女学校「顕道女学院」を創設しました。この女学校が発展して、現在の「京都女子学園」「京都女子大学」となりました。学校創設者でありながら、一人の教師として1927(昭和2)年まで教壇に立った和里子は、女子教育を根付かせることに生涯を尽くしました。和里子の生家である勝願寺には、「かやのみ幼稚園」「かやのみこども園」があり、和里子の思いを継いで、仏教教育に力を入れています。
また、和里子は歌人としても活動し、多くの和歌を詠んでいます。その中で、最も有名な歌を紹介します。
岩もあり 木(こ)の根もあれど さらさらと たださらさらと 水の流るる わり子
川の水は、流れの途中に岩や木の根っこなどの障害物があっても、上流から下流へ、そして最終的には海へと流れていきます。水には形がないので、途中に障害物があっても、自由自在にさらさらと流れていきます。私たちの人生にも、苦しいことや悲しいこと、困ったこともたくさんあります。しかし、川の水の流れのように、障害があっても挫けず、こだわらず、日々の生活を送りたいものです。そうすれば、多くの幸せに恵まれた人生を送れるのではないでしょうか。
和里子は、お念仏を最も大切に考えた生き方をし、1962(昭和37)年、95年の生涯を閉じました。
京都女子大学 京都市東山区今熊野北日吉町35番地
注:このサイトは、甲斐和里子に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年94歳 、誕生日 1868年6月15日、命日 1962年11月27日
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甲斐 和里子(かい わりこ、1868年(慶応4年)6月15日 - 1962年(昭和37年)11月27日)は、日本の教育者。京都女子大学の前身、顕道女学院の創始者。旧姓・足利。
略歴
現在の広島県福山市神辺町西中条生まれ。父は勝願寺の住職で、浄土真宗本願寺派の学者の足利義山[1]。父が進徳教校(崇徳中学校・高等学校の前身)の教授になったため、1886年に広島開成舎に入学し英語・漢文を学ぶ。卒業した翌年の1890年、父の転勤に伴い京都に移る。仏教活動家平井金三の仏教系英学塾オリエンタルホールで英語を学ぶ[2]。明治初期の日本には各地でミッションスクールが創設されたが、仏教系の女子学校はほとんどなく、仏教精神の根ざした女子校が必要と教師の資格を得るため1893年、26歳で同志社女学校(同志社女子大学の前身)英語専科へ入学。1896年同校退学。同年甲斐駒蔵と結婚[3]。1897年、神戸市立親和女学校(神戸親和女子大学の前身)、滋賀県大津高等女学校(滋賀県立大津高等学校の前身)に教員として勤務。
1899年、松田甚左衛門の助力を得て、仏教徒のための女学校「顕道女学院」を創設。翌1900年、夫と共に私塾文中園(同年11月、文中女学校と改称)を開設した。1910年、同校は西本願寺の援助を受けて京都高等女学校と合併、連合本部が経営主体となるが、和里子は1927年に退職するまで教員として教壇に立ち学生らの指導にあたった。
1962年(昭和37年)、95歳で死去。
人物
人柄はボーイッシュ、ユーモアを好む、活発、ジョークが上手、勉強熱心、秀才、誠実、男まさり、と表現されている。また、自己に厳しく、前向きに明朗な人格づくりを心掛けていたという。甲斐和里子(旧姓 足利)は、1868(慶応4)年、備後国安那郡西中条村(現・広島県福山市神辺町西中条)の勝願寺で、父・足利義山、母・早苗の五女として生まれました。父の義山は、京都にある西本願寺を代表する仏教の高名な学者でした。お念仏を聴いて育った和里子は、女性の社会的地位を向上させるためには、仏教の教えに基づいた女子教育が必要であると考えました。そして、1899(明治32)年、仏教を教えとする女学校「顕道女学院」を創設しました。この女学校が発展して、現在の「京都女子学園」「京都女子大学」となりました。学校創設者でありながら、一人の教師として1927(昭和2)年まで教壇に立った和里子は、女子教育を根付かせることに生涯を尽くしました。和里子の生家である勝願寺には、「かやのみ幼稚園」「かやのみこども園」があり、和里子の思いを継いで、仏教教育に力を入れています。
また、和里子は歌人としても活動し、多くの和歌を詠んでいます。その中で、最も有名な歌を紹介します。
岩もあり 木(こ)の根もあれど さらさらと たださらさらと 水の流るる わり子
川の水は、流れの途中に岩や木の根っこなどの障害物があっても、上流から下流へ、そして最終的には海へと流れていきます。水には形がないので、途中に障害物があっても、自由自在にさらさらと流れていきます。私たちの人生にも、苦しいことや悲しいこと、困ったこともたくさんあります。しかし、川の水の流れのように、障害があっても挫けず、こだわらず、日々の生活を送りたいものです。そうすれば、多くの幸せに恵まれた人生を送れるのではないでしょうか。
和里子は、お念仏を最も大切に考えた生き方をし、1962(昭和37)年、95年の生涯を閉じました。
著作リスト
- 『草かご』(真宗学研究所、1936年)
- 『落葉かご』(百華苑、1949年)
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