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この追悼サイトは、 前田 利家(加賀藩主・前田氏の祖)さまのために作成されました。

享年60歳 、誕生日 1539年1月15日、命日 1599年4月27日
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前田 利家(まえだ としいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名加賀藩主・前田氏の祖。豊臣政権五大老の一人。俗に「加賀百万石の祖」とも称される。

略歴[編集]
尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)の荒子城主前田利春の四男。はじめ小姓として14歳のころに織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。その後柴田勝家与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登一国23万石を拝領し大名となる。

信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後に羽柴秀吉に臣従した。以後、豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、加賀国越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を築く。また、豊臣政権五大老に列せられ、豊臣秀頼の傅役(後見人)を任じられる。秀吉の死後、対立が顕在化する武断派文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病死した。

仕官・小姓時代[編集]
天文7年(1539年12月25日前田利春の四男として尾張国愛智郡荒子で生まれる[1]。幼名は犬千代[2]。荒子前田家は利仁流藤原氏の一族とも菅原氏の一族ともいわれるが、確かなものではない。当時の領地は2,000貫だった(利家記)。

生年に関しては、これまでは『松雲公御考記』などの前田家側の記録から天文7年12月(1539年1月)説が有力だったが、近年では、秀吉が没した時に利家が「耳塞ぎ餅」を行ったとする伝えをもとに秀吉と同年とする天文5年(1536年)を生年とする説[3]や、これを訂正した天文6年(1537年)を生年とする説[4] が提示されている。

はじめ前田氏は、織田家筆頭家老・林秀貞の与力だった(『信長公記』・『加賀藩史稿』)。天文20年(1551年)1月、織田信長に仕える[5]。同年、元服して孫四郎利家と名乗った[6][注釈 2]。若い頃の利家は、短気で喧嘩早く、派手な格好をしたかぶき者であった[7]

赤母衣衆[編集]
250px-Maeda_Toshiie_Statue_03-3.jpg前田利家騎馬像荒子駅)青年時代の利家は血気盛んで槍の又左衞門槍の又左などの異名をもって呼ばれていた。

弘治2年(1556年)8月24日、信長と、その弟・信行による織田家の家督争いである稲生の戦いでは、敵将・宮井勘兵衛恒忠が放った矢が右目下に当たったものの、これを討ち取った[8]

永禄元年(1558年)、通称を又左衛門と改めた[9]。同年、尾張上四郡を支配していた守護代岩倉城主・織田信安(岩倉織田氏)の息子・織田信賢との争いである浮野の戦いにも従軍し功積を挙げた。前述の異名で呼ばれ始めたのも、この戦いの頃からという[10]。また、この戦いの後、永禄初年ごろに新設された赤と黒の母衣衆(ほろしゅう:信長の親衛隊的存在の直属精鋭部隊)の赤母衣衆の筆頭に抜擢され、多くの与力を添えられた上に、100貫の加増を受ける。同年、従妹であるまつ(芳春院)を室に迎えて、すぐに長女・を儲ける

永禄2年(1559年)、利家は信長の寵愛を受けた同朋衆拾阿弥と諍いを起こし、拾阿弥を斬殺したまま出奔した。この事件は俗に、「笄(こうがい)斬り」と呼ばれている。当初、この罪での成敗は避けられなかったが、柴田勝家森可成らの信長への取り成しにより、出仕停止処分に減罰され、浪人暮らしをする。この間、熱田神宮社家松岡家の庇護を受ける[11]

永禄3年(1560年)、利家は出仕停止を受けていたのにも関わらず、信長に無断で桶狭間の戦いに参加して朝の合戦で首一つ、本戦で二つの計三つの首を挙げる功を立てるも、帰参は許されなかった。

永禄4年(1561年)、利家は森部の戦いでも無断参戦する。ここで斎藤家重臣・日比野清実の家来で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛なる怪力の豪傑を討ち取る功績を挙げた。この時、足立以外にも首級1つを挙げている。2つの首級を持参して信長の面前に出ると、今回は戦功が認められ、信長から300貫が加増されて450貫文となり[11]、ようやく帰参を許された(『信長公記』)

能登国主[編集]
天正9年(1581年)3月、信長の命により、菅谷長頼らともに能登国を治める[16]。同年8月17日、能登一国を与えられた[17]。利家は七尾城に入った[17]。旧加賀藩領(石川県富山県)では、この時点で「加賀藩」が成立したと解釈され、利家は初代藩主とされている(しかし、近年では徳川氏へ従属した利長を「初代加賀藩主」とする解釈もなされている)。

翌年、難攻不落ながら港湾部の町から離れた七尾城を廃城、港を臨む小山を縄張りして小丸山城を築城した[18]

五大老・秀頼の傅役[編集]
慶長3年(1598年)になると、秀吉と共に利家も健康の衰えを見せ始めるようになる。3月15日に醍醐の花見に妻のまつと陪席すると、4月20日に嫡子・利長に家督を譲り隠居湯治のため草津に赴いた。この時、隠居料として加賀石川郡河北郡、越中氷見郡、能登鹿島郡にて計1万5千石を与えられている(加賀藩歴譜)。しかし、実質的には隠居は許されず、草津より戻った利家は、五大老・五奉行の制度を定めた秀吉より大老の一人に命じられる。しかも家康と並ぶ大老の上首の地位であった。なおこの政治体制を「秀吉遺言覚書体制」と言う[32]。そして8月18日、秀吉は、利家らに嫡子である豊臣秀頼の将来を繰り返し頼み没する。

慶長4年(1599年)元旦、諸大名は伏見に出頭し、新主秀頼に年賀の礼を行った。利家は病中ながらも傳役として無理をおし出席、秀頼を抱いて着席した。そして、10日、秀吉の遺言通り、家康が伏見城に利家が秀頼に扈従し大坂城に入る。以後、秀頼の傅役として大坂城の実質的主となる(言経・利家夜話)。

利家の妻・前田まつとは
前田利家の妻であった前田まつは、武将の妻のなかでは最もよく知られる人物の一人です。生後すぐに実父が亡くなったため、叔母のもとに引き取られることになりますが、この叔母の夫が利家の父・前田利昌でした。 まつは、幼い頃から容姿端麗で賢く、読み書きそろばんをも嗜む才媛だったのです。

そのため、利家とまつは従兄妹の間柄でしたが、利家が21歳、まつが11歳のときに祝言をあげました。この翌年には長女の幸が誕生。最終的には、前田利家とまつは2男9女の子どもをもうけましたが、この時代に正室がこれだけ多くの子を産んだのは大変珍しいことでした。結婚して1年後、前田利家とまつの間には、長女「幸姫」(こうひめ)が誕生し、そのあとも次々と授かり、2男9女もの子どもを儲けたのです。そして前田利家とまつは、家族ぐるみで交流があり、子どものいなかった「豊臣秀吉」と「ねね」のちの「高台院」(こうだいいん)夫妻に、四女「豪姫」(ごうひめ)を養女として差し出します。
また、豊臣秀吉の母「大政所」(おおまんどころ)とも、親しい付き合いがあったと言われています。そののち、三女の「摩阿姫」(まあひめ)が豊臣秀吉の側室となり、前田家豊臣家はより一層強い絆で結ばれたのです。

「前田利家」の正室である「芳春院」(ほうしゅんいん)通称「まつ」は、前田利家を支えることで、前田家を豊臣政権の重要な地位に導いた女性。前田利家の没後は「徳川家康」から謀反の疑いをかけられ、これを晴らすために、天下にかかわる重大な決断をし、加賀120万石の礎を築きました。

   江戸町通りから望む金沢城石川門   江戸町通りから望む金沢城石川門

※注:このサイトは、前田利家に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2024年11月24日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
戦乱の時代を切り抜けた実力は、若い頃は「槍の又左」と異名をとる程、武名も轟いていました。 織田~豊臣~徳川時代と激変の時代を乗り越え加賀百万石の礎を築いた利家、まつの戦国武将の夫婦愛は見事としか言いようがありません。
   合掌

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このメッセージは、 2024年11月24日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
戦乱の時代を切り抜けた実力は、若い頃は「槍の又左」と異名をとる程、武名も轟いていました。 織田~豊臣~徳川時代と激変の時代を乗り越え加賀百万石の礎を築いた利家、まつの戦国武将の夫婦愛は見事としか言いようがありません。
   合掌