この追悼サイトは、 丹波 哲郎(俳優、芸能プロモーター、心霊研究家)さまのために作成されました。
享年84歳 、誕生日 1922年7月17日、命日 2006年9月24日
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丹波 哲郎(たんば てつろう[1]、1922年〈大正11年〉7月17日[1][2] - 2006年〈平成18年〉9月24日[2])は、日本の俳優・声優・芸能プロモーター・心霊研究家。
東京府[1]豊多摩郡大久保町出身[3]。身長175cm。俳優活動は50年以上で出演した映画は外国映画10本を含んだ300本以上に及ぶ名優[4][1]である。テレビ番組でも活躍し、映画製作にも携わった。丹波プロダクション[注釈 1]・俳優養成所「丹波道場」を設立して後進の育成も手がけた。心霊学と霊界の研究、多数の書籍を著しており、『丹波哲郎の大霊界』はベストセラーとなった[4]。
1948年に大学を卒業[3]。卒業後は団体(油糧砂糖配給公社)職員となるも俳優を志し[3]、1950年創芸小劇場主宰を経て劇団文化座に加入後、1951年春勧誘されていた新東宝に入社[3]。芸名はこの時に付けられ、「新東宝が勝手に(芸名を)決めていた」と語っている[10]。丹波の態度が大きいことが問題とされ[3]、1年以上役が付かないでいたが[3]、1952年に『殺人容疑者』に主演級の役でデビューする。もともとこの役は当時文化座に在籍していた山形勲にオファーがあったものだが、山形が骨折しており応じられないことを丹波が代わりに伝えに行ったところ、プロデューサーから「お前が良い。お前に決めた」と言われ決まったものであった[11]。
1961年陰のある二枚目としておもに敵役・悪役で活躍し[4]、1956年公開の柳家金語楼の主演映画『金語楼の兵隊さん』の助演をきっかけに金語楼劇団へ誘われ舞台の客演もこなす多忙な状況だったが[12]1959年、丹波の「新東宝の作品のレベルが落ちている」との発言が記事となり、社長の大蔵貢は謝罪すれば許す考えでいたが[3]、丹波は所信を曲げず、映画『双竜あばれ雲』を最後に同6月新東宝を退社[3]。フリーランスとなり、五社英雄とコンビを組み[3]、1960年に放送された『トップ屋』、1961年にはニュー東映で映画『霧と影』、『白昼の無頼漢』に主演した。五社とは盟友となり、1969年の『御用金』にも出演している。
『豚と軍艦』(1961年)、『丹下左膳』(1963年)、『暗殺』(1964年)、1963年の時代劇『三匹の侍』などでスターとしての地位を確固たるものとし[4]、荒くれ者の漁師に扮した『ジャコ万と鉄』や、時代劇映画・ギャング映画・任侠映画など、幅広く出演している。早くから海外の映画作品にも出演しており、1961年にはキャロル・ベイカー主演のアメリカ映画『太陽にかける橋(英語版)』、イギリスでは『第七の暁』(1964年)と『007は二度死ぬ』(1967年)に出演。国際的に認知され、海外においても活躍した[4][注釈 2]。
1968年から1973年まで放映されていた『キイハンター』では黒木鉄也で主演した。黒木のイメージは『007は二度死ぬ』で丹波が演じた、タイガー田中の人物像も反映させている。最盛期の『キイハンター』は視聴率30%を越える人気ドラマとなり、当初1年の予定が5年に延ばされた[14]。丹波プロダクション[注釈 1]・俳優養成所「丹波道場」を設立して後進の育成も手がけ、宮内洋は丹波の一番弟子である。『キイハンター』終了後も、丹波は同時間帯で『アイフル大作戦』『バーディ大作戦』『Gメン'75』と出演して、TBS系土曜21:00の顔となる。
前後して1973年には『人間革命』で毎日映画コンクール男優演技賞受賞。1974年には『砂の器』の今西刑事役では、人情味のある重厚な演技が高く評価された[4]。1978年、原田雄一との連名で『砂の小舟』を製作(日本公開は1980年)、カンヌ国際映画祭にも出品された[15]。1973年、「丹波プロダクション」設立。
1980年の『二百三高地』で第23回ブルーリボン賞助演男優賞と第4回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞をそれぞれ受賞した。
生涯の研究分野であった「死後の世界」を描いた映画を作成・出演し[4]、300万人以上の動員を得る。1994年11月には舞台で「大霊界」を表現し、映像では得ることのできない空間を表現し話題を呼ぶ。「霊界はすばらしいところ」と発言していた。
2000年、『十五才 学校IV』で日刊スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞し、『利家とまつ』(2002年)、『義経』(2005年)などで、渋みある演技をみせていた[4]。
2005年2月から約2か月間、インフルエンザと虫垂炎のために入院し、それが原因でひどく痩せ、健康が懸念されていた。2006年(平成18年)9月24日午後11時27分、肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去。84歳没
心霊学と霊界の研究家としても知られる俳優の丹波哲郎のベストセラー「丹波哲郎の大霊界」の映画化作品。丹波は原作・脚本・総監督を兼任。後に舞台化もされた。
続編『丹波哲郎の大霊界2 死んだらおどろいた!!』(1990年)[2]、『大霊界3 死んだら生まれ変わる』(1994年)も制作された。
※注:このサイトは、丹波哲郎に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年84歳 、誕生日 1922年7月17日、命日 2006年9月24日
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丹波 哲郎(たんば てつろう[1]、1922年〈大正11年〉7月17日[1][2] - 2006年〈平成18年〉9月24日[2])は、日本の俳優・声優・芸能プロモーター・心霊研究家。
東京府[1]豊多摩郡大久保町出身[3]。身長175cm。俳優活動は50年以上で出演した映画は外国映画10本を含んだ300本以上に及ぶ名優[4][1]である。テレビ番組でも活躍し、映画製作にも携わった。丹波プロダクション[注釈 1]・俳優養成所「丹波道場」を設立して後進の育成も手がけた。心霊学と霊界の研究、多数の書籍を著しており、『丹波哲郎の大霊界』はベストセラーとなった[4]。
来歴
大久保町字百人町にて丹波家の三男として生誕。祖父は丹波敬三[3]、父はその二男で、東北薬専卒の陸軍薬務官で日本画家の丹波緑川(次郎)[5]、親戚には従弟で音楽学者の丹波明、元大審院院長の林頼三郎らがいる。哲郎の生家は祖父の別邸を父が譲り受けた屋敷[5]。家柄は系図を遡ると、天平の昔から伝わる薬師の名家で[3]、『医心方』を著した丹波康頼にたどり着く。1948年に大学を卒業[3]。卒業後は団体(油糧砂糖配給公社)職員となるも俳優を志し[3]、1950年創芸小劇場主宰を経て劇団文化座に加入後、1951年春勧誘されていた新東宝に入社[3]。芸名はこの時に付けられ、「新東宝が勝手に(芸名を)決めていた」と語っている[10]。丹波の態度が大きいことが問題とされ[3]、1年以上役が付かないでいたが[3]、1952年に『殺人容疑者』に主演級の役でデビューする。もともとこの役は当時文化座に在籍していた山形勲にオファーがあったものだが、山形が骨折しており応じられないことを丹波が代わりに伝えに行ったところ、プロデューサーから「お前が良い。お前に決めた」と言われ決まったものであった[11]。
1961年陰のある二枚目としておもに敵役・悪役で活躍し[4]、1956年公開の柳家金語楼の主演映画『金語楼の兵隊さん』の助演をきっかけに金語楼劇団へ誘われ舞台の客演もこなす多忙な状況だったが[12]1959年、丹波の「新東宝の作品のレベルが落ちている」との発言が記事となり、社長の大蔵貢は謝罪すれば許す考えでいたが[3]、丹波は所信を曲げず、映画『双竜あばれ雲』を最後に同6月新東宝を退社[3]。フリーランスとなり、五社英雄とコンビを組み[3]、1960年に放送された『トップ屋』、1961年にはニュー東映で映画『霧と影』、『白昼の無頼漢』に主演した。五社とは盟友となり、1969年の『御用金』にも出演している。
『豚と軍艦』(1961年)、『丹下左膳』(1963年)、『暗殺』(1964年)、1963年の時代劇『三匹の侍』などでスターとしての地位を確固たるものとし[4]、荒くれ者の漁師に扮した『ジャコ万と鉄』や、時代劇映画・ギャング映画・任侠映画など、幅広く出演している。早くから海外の映画作品にも出演しており、1961年にはキャロル・ベイカー主演のアメリカ映画『太陽にかける橋(英語版)』、イギリスでは『第七の暁』(1964年)と『007は二度死ぬ』(1967年)に出演。国際的に認知され、海外においても活躍した[4][注釈 2]。
1968年から1973年まで放映されていた『キイハンター』では黒木鉄也で主演した。黒木のイメージは『007は二度死ぬ』で丹波が演じた、タイガー田中の人物像も反映させている。最盛期の『キイハンター』は視聴率30%を越える人気ドラマとなり、当初1年の予定が5年に延ばされた[14]。丹波プロダクション[注釈 1]・俳優養成所「丹波道場」を設立して後進の育成も手がけ、宮内洋は丹波の一番弟子である。『キイハンター』終了後も、丹波は同時間帯で『アイフル大作戦』『バーディ大作戦』『Gメン'75』と出演して、TBS系土曜21:00の顔となる。
前後して1973年には『人間革命』で毎日映画コンクール男優演技賞受賞。1974年には『砂の器』の今西刑事役では、人情味のある重厚な演技が高く評価された[4]。1978年、原田雄一との連名で『砂の小舟』を製作(日本公開は1980年)、カンヌ国際映画祭にも出品された[15]。1973年、「丹波プロダクション」設立。
1980年の『二百三高地』で第23回ブルーリボン賞助演男優賞と第4回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞をそれぞれ受賞した。
生涯の研究分野であった「死後の世界」を描いた映画を作成・出演し[4]、300万人以上の動員を得る。1994年11月には舞台で「大霊界」を表現し、映像では得ることのできない空間を表現し話題を呼ぶ。「霊界はすばらしいところ」と発言していた。
2000年、『十五才 学校IV』で日刊スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞し、『利家とまつ』(2002年)、『義経』(2005年)などで、渋みある演技をみせていた[4]。
2005年2月から約2か月間、インフルエンザと虫垂炎のために入院し、それが原因でひどく痩せ、健康が懸念されていた。2006年(平成18年)9月24日午後11時27分、肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去。84歳没
受賞
- 第28回毎日映画コンクール 男優演技賞 『人間革命』(1973年)
- 第4回日本アカデミー賞 最優秀助演男優賞 『二百三高地』(1981年)
- 第23回ブルーリボン賞 助演男優賞 『二百三高地』(1981年)
- 第13回日刊スポーツ映画大賞 助演男優賞 『十五才 学校IV』(2000年)
映画
『豚と軍艦』(1961年)『智恵子抄』(1967年)- 殺人容疑者(1952年、新東宝)- 木村※丹波正三郎名義
- 憲兵(1953年、新東宝)
- 戦艦大和(1953年、新東宝) - 尾形少尉
- 叛乱(1954年、新東宝) - 香田大尉
- 潜水艦ろ号未だ浮上せず(1954年、新東宝)
- 日本敗れず(1954、新東宝) - 松崎少佐
- 人間魚雷回天(1955年、新東宝)-鈴木主計少佐
- たそがれ酒場(1955年、新東宝)- 森本
- 花真珠(1955年8月22日、新東宝) - 検察官
- 怪異宇都宮釣り天井(1956年、新東宝)
- 暴力の帝王(1956年、新東宝)
- 女真珠王の復讐(1956年、新東宝) - 野口吾郎
- 波止場の王者(1956年、新東宝) - 志水重吉
- 阿波狸変化騒動(1957年、新東宝) - 金長狸
- ひばりの三役 競艶雪之丞変化(1957年、新東宝) - 門倉平馬
- 風雲急なり大阪城 真田十勇士総進軍(1957年2月27日、新東宝) - 平野主人正
- 明治天皇と日露大戦争(1957年、新東宝) - 島村速雄
- 天皇・皇后と日清戦争(1958年、新東宝) - 大鳥圭介
- 重臣と青年将校 陸海軍流血史(1958年9月28日、新東宝) - 大川周明
- 暴れん坊森の石松(1959年、東宝) - 放れ駒の藤蔵
- 飛びっちょ勘太郎(1959年、東宝) - 大塚雄之進
- 夜霧の決闘(1959年、東宝) - 中西 役
- 金語楼の海軍大将(1959年12月27日、新東宝) - 機動部隊参謀
- 0線の女狼群(1960年、新東宝)
- 女奴隷船(1960年、新東宝)
- 国定忠治(1960年、東宝) - 三ツ木の文蔵
- 摩天楼の男(1960年、日活) - 大牟田源吉
- 第三波止場の決闘(1960年、東宝) - 霧島
- みな殺しの歌より 拳銃よさらば!(1960年、東宝) - 田辺
- 大坂城物語(1961年、東宝) - 石川貞政
- 豚と軍艦(1961年、日活) - 河西鉄次 他、多数あり
心霊学と霊界の研究家としても知られる俳優の丹波哲郎のベストセラー「丹波哲郎の大霊界」の映画化作品。丹波は原作・脚本・総監督を兼任。後に舞台化もされた。
続編『丹波哲郎の大霊界2 死んだらおどろいた!!』(1990年)[2]、『大霊界3 死んだら生まれ変わる』(1994年)も制作された。
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