承継
この追悼サイトは、 西郷 輝彦(シンガーソングライター・俳優)さまのために作成されました。

享年75歳 、誕生日 1947年2月5日、命日 2022年2月20日
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西郷 輝彦(さいごう てるひこ、1947年昭和22年〉2月5日 - 2022年令和4年〉2月20日)は、日本シンガーソングライター俳優タレント鹿児島県鹿児島郡谷山町(現:鹿児島市)出身[1]血液型はA型。

歌手としては、橋幸夫舟木一夫と共に昭和歌謡の「御三家」の1人として[注 1]人気を博した。芸名は維新の三傑の一人西郷隆盛にちなむ[1]

京都、名古屋などをぐるぐるまわりながら、バンドボーイ活動をしていたところを龍美プロに誘われ入社。

1964年2月、クラウンレコードより「君だけを」でデビュー。同曲は60万枚を売り上げた[4]。「十七才のこの胸に」もヒットし、両曲でその年の第6回日本レコード大賞新人賞を獲得。同年「十七才のこの胸に」で映画デビュー。しかし事務所が解散し、東京第一プロダクション(現 第一プロ)へ移籍するも同社を退社した相澤秀禎マネージャーにより1965年にクラウンレコード、太平洋テレビなどと共同出資(西郷は50%)によって誠和プロを設立し、当面はクラウン・レコード宣伝部に事務所を置き、社長業を兼ねる。ビート歌謡曲歌手として大人気であっただけでなく多くの映画に主演し、1960年代を代表する青春スターであった。

自ら我修院建吾[注 2]のペンネームで雑誌『明星』に連載小説を書き、映画にもなった自作曲「傷だらけの天使」もヒットした。銀川晶子、五代けんも西郷自身の作詞作曲時のペンネームである。またデビュー当時のキャッチフレーズは「太陽の王子」であった。

1966年に発売した「星のフラメンコ」は、30万枚を売り上げる大ヒットとなり[7]、いくつかの歌手によるカバーのほか、タモリ(曲名は「肉のフラメンコ」[7])やCMなどにパロディー化もされている

1970年代に入り「真夏のあらし」(第12回日本レコード大賞作曲賞受賞曲)や「情熱」、「略奪」、「愛したいなら今」とロックポップス色を前面に出した曲が立て続けにヒットし、1971年2月には日生劇場でのロングラン公演を果たし大成功を収めた。

1973年、劇作家花登筺の誘いを受け、山善創業者・山本猛夫の半生を描いたテレビドラマ「どてらい男(ヤツ)」(関西テレビ制作・フジテレビ系)に山本をモデルとした「山下猛造」役で主演し、同番組は高視聴率を獲得し1977年までのロングランヒットとなる。これ以降歌手活動を一時縮小する。

1975年からは時代劇にも進出。特に国民的時代劇であるTBSナショナル劇場」の「水戸黄門第6部」の第1話にゲストとして出演したことがきっかけで、同枠の時代劇「江戸を斬る」の主演遠山金四郎役に抜擢された。同時代劇で京都映画祭新人賞を受賞。また第4シリーズの初回において最高視聴率36.7%を獲得するなどの人気シリーズとなり、俳優としての地位を確立した。またあらゆる面でその後の人生に大きな影響を与えた森繁久弥に師事し、舞台「暖簾」、「孤愁の岸」、「屋根の上のヴァイオリン弾き」などに出演する森繁ファミリーの一員でもあった。

私生活[編集]1972年辺見マリ軽井沢で電撃結婚。二児(一男一女)をもうけたが1981年に性格の不一致を理由に離婚。離婚に至った発端は歌手、現代劇、時代劇で多忙を極めた活躍により自宅に帰るのは週に一度という生活だったと回想している。長男はミュージシャン・プロモーターの辺見鑑孝、長女はタレントの辺見えみり

1990年に自身の事務所に勤務していた19歳年下の女性と2度目の結婚。三児(三女)をもうけた。

2011年前立腺がんが判明し、全摘手術を行った[8]

2013年1月8日、娘のえみりが夫の松田賢二との間に第1子授かり、妊娠5カ月であることを発表した際、そのことに触れてマスコミに対し、喜びのコメントを寄せている。西郷にとって初孫となる。2013年6月8日、えみりが第一子である女児を出産する。娘夫婦から母子ともに健康で無事出産したことをメールで報告を受けた。

NHK紅白歌合戦出場歴[編集]
  • 1964年 - 1973年 10回連続出場。なお、1966年と1973年は「星のフラメンコ」で出場している。
  • 1987年には白組出場者加山雄三の応援として、渡辺謙・三浦友和とともに出演。

年度/放送回回曲目出演順対戦相手備考1964年(昭和39年)/ 第15回十七才のこの胸に17/25青山和子1965年(昭和40年)/ 第16回2星娘23/25中尾ミエ1966年(昭和41年)/ 第17回3星のフラメンコ01/25中尾ミエ(2)トップバッター1967年(昭和42年)/ 第18回4願い星叶い星13/23江利チエミ1968年(昭和43年)/ 第19回5友達の恋人06/23ザ・ピーナッツ1969年(昭和44年)/ 第20回6海はふりむかない03/23小川知子1970年(昭和45年)/ 第21回7真夏のあらし13/24藤圭子1971年(昭和46年)/ 第22回8掠奪05/25岸洋子1972年(昭和47年)/ 第23回9したいなら今12/23本田路津子1973年(昭和48年)/ 第24回10星のフラメンコ(2回目)02/22いしだあゆみ

映画[編集]※注:このサイトは、西郷輝彦に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2024年3月8日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
歌に、ドラマに、映画にと大活躍した西郷輝彦はいつまでもファンの心の中に生き続けます。                    合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2024年3月8日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
歌に、ドラマに、映画にと大活躍した西郷輝彦はいつまでもファンの心の中に生き続けます。                    合掌
大切な方の思いで

(生い立ち)

母親の実家は日向国飫肥藩家老職の家柄[2]で幼少の頃から芸事に傾倒し、小学生時代は剣舞や絵画を習ったり、近所の子供を集めては自身で作った紙芝居を披露したり、地元の慈眼寺公園でチャンバラごっこに明け暮れる少年だった。中学に入ると主としてスポーツに力を入れ、野球、テニス、バレーなど、あらゆるスポーツをそつなくこなす少年であった。背が高かったこともあり、他のクラブから試合への参加を頼まれることもあったとのことである。またジャズが好きだった兄の影響で音楽にも傾倒し、将来は歌手になりたいとの夢を抱いていた一方、石原裕次郎小林旭などダイヤモンドラインと言われた日活映画に憧れ映画俳優になりたいとの夢もあり、当時あった映画会社5社のニューフェイスに応募したが、結果は落選だった[3]