この追悼サイトは、 山崎 種二 、山種証券(現・SMBC日興証券)創業者さまのために作成されました。
享年89歳 、誕生日 1893年12月8日、命日 1983年8月10日
※ 山崎 種二さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
山崎 種二(やまざき たねじ、1893年12月8日 - 1983年8月10日)は、日本の相場師・実業家・教育家。山種証券株式会社(現SMBC日興証券株式会社)、山種物産株式会社(のちに株式会社 アサヒトラスト→解散)、株式会社ヤマタネの創業者であり、米相場と株式相場において成功を収めた。
横山大観と親交があるなど近代日本画の収集家でもあり、現代日本画専門の山種美術館を設立している。ちなみに近代日本画を収集の対象にしたのは「贋作をつかまされる心配が少なく、値上がりの可能性も高い」という理由だったと言われている。また本間丈介が運営していた富士見高等女学校を引き継ぎ、後に城北中学校・高等学校を開校することになる深井鑑一郎を校長に招請するなど教育家としての一面もある。
座右の銘は「信は万事の本を為す」で、この言葉はヤマタネグループの企業理念となっているほか、富士見中学高等学校の教育目標にも掲げられている。
新聞と経済雑誌を読むこと
1964年2月24日号より 私の孫が今年成人式を迎えるので、成人の日に、私とその孫と2人で、NHKの“夜の随想”で、10分間ほど放送した。
そのときの放送でも話したように、私は、山の中の百姓家に生まれた。
明治時代の農家の生活というものは、日本人の生活としては、最低だった。
そういう最低の生活の中から出てきたわけだから、なにをやっても分がいい。自分が若いとき高いところにいたとすると、そこから転がり落ちてしまう恐れもあるが、一番低いところから這い出したのだから、そういう苦労がない。
私は裸で東京に出てきて、叔父のところでやっかいになった。その叔父は山崎繁次郎といい、米問屋をやっていた。当時、「時事新報」が全国の金満家というのを3年にいっぺんか、5年にいっぺん発表した。
そのときにこの人は50万円の金満家として出たことがある。渋沢栄一さんの米穀輸送をやっていた。
つまり、“実業家の神様”の洗礼を受けた人だ。
山種美術館 東京都渋谷区広尾3-12-36
注:このサイトは、山崎種二に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年89歳 、誕生日 1893年12月8日、命日 1983年8月10日
※ 山崎 種二さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
山崎 種二(やまざき たねじ、1893年12月8日 - 1983年8月10日)は、日本の相場師・実業家・教育家。山種証券株式会社(現SMBC日興証券株式会社)、山種物産株式会社(のちに株式会社 アサヒトラスト→解散)、株式会社ヤマタネの創業者であり、米相場と株式相場において成功を収めた。
家族・親族
山崎富治は次男、味の素創業家・鈴木家とは縁戚である(鈴木三千代の次女が富治の夫人)。通産事務次官などを務めた今井善衛は長女の夫、運輸事務次官からJR東日本の初代社長となった住田正二は二女の夫。孫は株式会社ヤマタネ社長の山崎元裕。内閣総理大臣を務めた福田赳夫の妻は山崎夫人の従姉妹で、福田家や越智隆雄・千野志麻などと係累がつながっている。人物
1920年代から米相場に手を染め始め、石井定七や伊東ハンニを向こうに回して成功を収めた。専ら売り方に専念し、米相場において「売りの山種」として有名だった。1939年に米穀配給統制法によって米穀商品取引所が廃止される前後から(昭和8年頃と思われる)、本格的に株式相場に転進する。上昇相場が続いていたが途中から売り方に回り、その結果廃業寸前まで追い込まれるものの1936年2月末の二・二六事件で相場が大暴落。事後に付随する乱高下相場で、当時の金額にして500万円を稼いだと言われる。1944年には山崎証券を創業、戦後も売り方に回って「売りの山種」として成功を収める。横山大観と親交があるなど近代日本画の収集家でもあり、現代日本画専門の山種美術館を設立している。ちなみに近代日本画を収集の対象にしたのは「贋作をつかまされる心配が少なく、値上がりの可能性も高い」という理由だったと言われている。また本間丈介が運営していた富士見高等女学校を引き継ぎ、後に城北中学校・高等学校を開校することになる深井鑑一郎を校長に招請するなど教育家としての一面もある。
座右の銘は「信は万事の本を為す」で、この言葉はヤマタネグループの企業理念となっているほか、富士見中学高等学校の教育目標にも掲げられている。
略歴
- 1893年 群馬県高崎市(旧吉井町)に生まれる。生家は江戸時代、苗字帯刀を許されていたが秩父騒動で没落した。父山崎宇太郎は小百姓だった。種二は13代目の当主である[1]。
- 1908年 深川の山繁商店(回米問屋)に入店する。
- 1924年 独立し、山崎種二商店(現在の株式会社ヤマタネ)を創業する。
- 1940年 財団法人「山崎学園」(現 学校法人山崎学園 富士見中学高等学校)を創立。
- 1944年 山崎証券(のちに他の証券会社と合併し、SMBCフレンド証券)を創業する。
- 1952年 東京穀物商品取引所の初代理事となる。
- 1966年 山種美術館を設立。
- 1974年 勲三等旭日中綬章を受ける[2]。
著書
- 『そろばん』 日本経済新聞社、1972年/パンローリング、2009年 - 自伝
伝記
- 城山三郎『百戦百勝 働き一両・考え五両』 角川文庫、1979年 - 山崎種二をモデルにした伝記小説
- 筆内幸子『相場の偉人・山崎種二伝』 善本社、1985年
- 尾崎芳雄『山崎種二 : その生涯と事業』 山種グループ記念出版会、1989年
また、30代のときに故郷を流れる鏑川に橋を架けたエピソードを披露している。山崎は美術品のコレクターで、近現代の日本画約1800点を所蔵する山種美術館(東京都渋谷区)を設立したことでも知られるが、戦時中、美術品のコレクションを故郷に“疎開”できたのは、この橋のおかげだったという。「人のためはわがため」という言葉を身に染みて味わったと語っている。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)
若い頃の勉強法は新聞と経済雑誌を読むこと
1964年2月24日号よりそのときの放送でも話したように、私は、山の中の百姓家に生まれた。
明治時代の農家の生活というものは、日本人の生活としては、最低だった。
そういう最低の生活の中から出てきたわけだから、なにをやっても分がいい。自分が若いとき高いところにいたとすると、そこから転がり落ちてしまう恐れもあるが、一番低いところから這い出したのだから、そういう苦労がない。
私は裸で東京に出てきて、叔父のところでやっかいになった。その叔父は山崎繁次郎といい、米問屋をやっていた。当時、「時事新報」が全国の金満家というのを3年にいっぺんか、5年にいっぺん発表した。
そのときにこの人は50万円の金満家として出たことがある。渋沢栄一さんの米穀輸送をやっていた。
つまり、“実業家の神様”の洗礼を受けた人だ。
山種美術館 東京都渋谷区広尾3-12-36注:このサイトは、山崎種二に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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