承継
皆様、本日はご多用の中、玉澤郁江のメモリアルサイトにお越しいただき、誠にありがとうございます。

母は私が子供のころから、どこへ行っても自分から気さくに人に声をかけているような人でした。そんな母がいつも口にしていたのは、「頼れるのは、やっぱり友達やで」という言葉です。その言葉通り、母自身も多くのご友人に囲まれ、皆様とのおしゃべりが何より大好きな人でした。

晩年には帯状疱疹の神経痛を患い、毎日辛そうに痛みに耐えている姿がありましたが、今はようやくあの痛みから解放されたのだと思うと、家族として少し安堵している部分もございます。

本日は、皆様と共に母の思い出を語り合いながら、温かく見送ってやりたいと存じます。

メッセージは郁江さんへの想いを表すものです。 こちらに最初のメッセージを投稿してください。

メッセージの投稿

 
軌跡

郁江の半生(89年の歩み:実録版)

生い立ち(1936年~)
1936年5月9日(0歳)誕生。西川家の次女として淀川近くで育ちました。8歳のときに終戦を迎え、9歳頃にはバラック小屋での生活の中、鉄クズを拾って売り学用品を買うという戦後の苦しい時代をたくましく生き抜きました。幼い頃から家族を支えながら育った経験が、母の強さの原点だったのだと思います。

自立への歩み(1958年~)
22歳のときに神戸大丸に就職しましたが、24歳頃には「お金を貯めないと」との思いからメリヤス工場へ転職。働きながら独学で洋裁を学び、28歳のときにはブラウス仕立てとして独立しました。何もないところから自分の力で道を切り開いた、母らしい決断だったと感じます。

結婚・子育て(1965年~)
29歳のときに父と結婚。30代前半で私たち兄弟が生まれ、34歳のときに千里の団地へ入居しました。しかしその頃、父が糖尿病を発症し、母は独学でカロリー計算を学び、厳格な食事管理を続けながら家庭を支えてくれました。内職もこなしながら家族を守り続けた姿は、今思い返しても頭が下がります。

家庭を支えた時代(1970年代後半~1990年代)
40代の頃、父は多忙を極め、毎日遅くまで働く生活でしたが、母は健康管理と子育てを一手に担っていました。50代にかけては、私たちの成長を見守りながら、同窓会や観劇、美術館巡り、買い物などに小さな楽しみを見つけ、持ち前の明るさで日々を過ごしていました。そんな姿が家庭の空気を明るくしてくれていたのだと思います。持ち前のユーモアと話術で出会う人々を魅了していた、母が一番輝いていた時代です。

別れと責任(1996年~)
60代に入り、兄弟との別れを経験しながらも母は気丈に振る舞っていました。また、長年住んだマンションでは管理組合の役員を務め、「嫌でたまらん」とこぼしながらも最後まで責任を果たしていました。どんな状況でも逃げずに向き合う人でした。

介護と晩年(2006年~)
73歳のときに自身が骨折し入院。その後、父のパーキンソン病による介護が本格化しました。75歳のときに孫が誕生し、それが大きな心の支えになっていたようです。82歳のときに父を看取った後は、「タコ糸が切れたような」深い喪失感を抱えながらも、「子供に迷惑をかけたくない」と一人での生活を守り続けました。帯状疱疹後神経痛の激痛に耐えながら最後まで一人で頑張り抜きました。

旅立ち(2025年3月17日)
89歳で永眠。突然の別れに、今もまだ実感が湧きません。孤独や不安、そして体の痛みに耐えながらも、最後まで自分の足で生き抜いた母。その人生を思うと、ようやくすべての苦しみから解放されたのだと、そう信じたい気持ちです。

洋裁と水彩画

母は若い頃、工場で働きながら独学で洋裁を学び、やがて自ら仕事を始めました。ミシンを踏むことは、戦後の厳しい時代を自らの手で生き抜いた証であり、母の誇りでもありました。
晩年になってもその腕前と「おしゃれを楽しむ心」は衰えることなく、日記には、

「秋物生地を買う。生地は安。デザインどうする?」
「着物をほどいて服に仕立て直すことにする」
と胸を弾ませる様子が残されています。

また、友人に喜んでもらうために服を仕立てたりと、洋裁は母にとって交流の一部でもありました。どんなに生活が苦しくても、一人の女性として美しくあろうとするプライドが、縫い目の一つひとつに込められていたのだと思います。


心の自由を描く水彩画と仲間たちとの絆晩年になって母が夢中になった水彩画は、単なる趣味ではなく、心の自由を取り戻す大切な手段でした。

日記には、

「2週間振りに水彩画。描いている時が楽しい」
「フリースペースで絵を描く時間も面白い」
と、キャンバスに向かう純粋な喜びが綴られています。

そして、水彩画は母が友人たちと外の世界に出る口実でもありました。
伊丹で桜をスケッチしながら笑い合ったり、能勢へドライブして互いに作品を批評し合ったり。絵画教室では、ベテランの仲間の絵を見て感銘を受けたり、時にはライバル心を燃やしたり、褒められて素直に喜んだり。日記には、少女のように目を輝かせる母の姿が生き生きと残されています。



洋裁と水彩画、そしてそこで笑い合える友人たちの存在がなかったら、母はあの過酷な日々を乗り越えられなかったかもしれません。
息子として、その二つのキャンバスが母の心をどれほど救い、自由と喜びを与えてくれたかを思うと、深く救われる思いがします。
報告

葬儀が無事に終了いたしました

Motokiyuujiさんが2026年3月24日に投稿
本日3月24日、母 郁江の葬儀・告別式を滞りなく執り行うことができました。
家族を中心としたささやかな時間ではありましたが、あたたかく見送ることができたことを、心より安堵しております。
生前お世話になりました皆様には、本来であれば直接ご報告と御礼を申し上げるべきところではございますが、まずは略儀ながらご報告申し上げます。
母は最期まで穏やかに過ごし、家族に見守られながら旅立ちました。
その姿に、深い感謝の気持ちを抱いております。
これからは、母が大切にしてきたご縁や想いを受け継ぎながら、日々を歩んでまいります。
生前のご厚情に、心より御礼申し上げます。