承継
この追悼サイトは、 やしき たかじん(シンガーソングライター・司会者・パーソナリティ)さまのために作成されました。

享年64歳 、誕生日 1949年10月5日、命日 2014年1月3日
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やしき たかじん(本名:家鋪 隆仁〈やしき たかじ〉[1][2]1949年昭和24年〉10月5日[4] - 2014年平成26年〉1月3日[5])は、日本シンガーソングライタータレント司会者ラジオパーソナリティ。主に関西ローカルや大阪の放送局製作番組に出演していた。愛称は「じんちゃん」「たかじんさん」「たかじん」など[注 1]
人物・経歴
個人事務所パブリック・インフォメーション・スタイル(P.I.S)代表取締役[注 2]、大阪を盛り上げるために創設された民間団体「OSAKAあかるクラブ」のキャプテン[6] および理事長[7] などを歴任した。

死後、やしきたかじんの肖像・楽曲などの権利関係はP.I.S及びP.I.S音楽出版とOffice TAKAJINが主張している状態である[8][9]

桃山学院高等学校在学中は新聞記者に憧れ新聞部に所属[13]朝日新聞社主催の全国新聞コンクールに入選も果たしている。高校時代、同級生の小谷由紀夫が作詞、たかじんが作曲した「コーヒーインタイム」が、NHKあなたのメロディー』に採用され、ザ・スパイダースをバックに歌手の奥村チヨが歌った[14]。大学受験に失敗し、系列の桃山学院大学経済学部に進学しながら別の大学を目指す仮面浪人となる。父に「将来は新聞記者か音楽家になりたい」と相談するが、会社を手伝わせるつもりだった父は激怒し、たかじんを勘当する[15]

京都時代[編集]
翌年、龍谷大学経済学部へ入学し、桃山学院大学を中退。京都に移り住む。三畳一間の下宿で高校の同級生で関西学院大学に進学した荒木十章らと曲作りに励む[16]。大学は6年在籍したあと中退祇園のハンバーガーショップ「ホリデーバーガー」で弾き語りで歌ったのを皮切りに、祇園のクラブやスナックでギターの弾き語りを始め、自分の曲以外に様々な曲のレパートリーを増やす[17]。この時期のたかじんは自暴自棄になっており、弾き語りで態度の悪い客には、タバスコママレモン(食器用洗剤)等をぶっかけたり、2階から放り出したりして暴れていたため、次々にクビになったという[18]

歌手活動[編集]
1971年京都レコード(2002年に日音に版権を売却し音楽事業から撤退)から『娼婦和子』でレコードデビューするが、刺激的かつ退廃的、「現在の日本国において、娼婦などという職業は存在しない」との理由で、程なく発売禁止廃盤された。

1973年5月15日には、京都文化芸術会館で初のコンサートを開催。1974年に東京・二子玉川に移住して地下鉄工事のアルバイトなどをしながら生活するが、1年ほどで再び京都に戻る。その後の1976年に、キング・ベルウッドからシングル『ゆめいらんかね』、アルバム『TAKAJIN』で再デビュー。同年、FM東京が選ぶ最優秀新人賞のベスト5に入る

1977年に宝塚歌劇団史上初のリサイタル『私の肖像画』を鳳蘭がやるということで、同歌劇団が行った際の「作曲部門担当」の選考で、当時同歌劇団の演出家であった草野旦が、たかじんのデビュー曲『ゆめいらんかね』を聴きその歌唱力と作曲センスを評価。白羽の矢が立ち、宝塚大劇場でも共演。この時、宝塚に楽曲5曲(『うわさ』『ゴロ寝』『ゆめいらんかね』『ひょっとしたらのお話』『ラスト・ショー』)を提供、その内の1曲『ラスト・ショー』は自身が歌ってレコード(アルバム:『プロフィール』の10曲目)も出している。なお、1993年には宝塚歌劇・星組公演『パパラギ』で『心はいつも』を提供し、これもたかじん本人が歌っている(アルバム『MOOD-夢見る男のために-』の3曲目)。

さらに同年、中村敦夫の推薦で『新・木枯し紋次郎』の主題歌『焼けた道』(作詞:中村敦夫 作曲:猪俣公章)を歌う
1980年にファンクラブ「CONCORDE」を設立(2004年度末に本人の意向により解散)。作詞家来生えつこと出会い、シングル・アルバム『明日になれば』をリリース。活動拠点を京都祇園から東京下北沢に移す。当時、レギュラー番組であった文化放送ラジオセイ!ヤング』の構成作家で作詞家デビュー前の秋元康と出会い親密な関係になる。当初は相談も兼ねて歌詞を持ってきた秋元に対し「全然アカン、話にならん。持って帰れ」と散々こき下ろしたが、その後に秋元作詞の曲は多数ヒットすることになった.

1982年、大阪駅前第二ビルの一角にマネージャーであった野田幸嗣とともに個人事務所「P.I.S(パブリック・インフォメーション・スタイル)」を設立。その後、1983年にビクターに移籍して『ラヴ・イズ・オーヴァー』をリリース、1984年にリリースされた『あんた』が上昇気流のきっかけとなる。1986年には『やっぱ好きやねん』が関西で注目を集めヒット。さらにこれが「大阪の歌手」として人気を得るきっかけとなり、1987年には『ICHIZU』が関西で大ヒットした。その後も、1989年には『大阪恋物語』、翌年には『なめとんか』がヒット、大阪色を前面に出したバラードシンガーとして根付いていくことになる(『やっぱ好きやねん』をきっかけに若き作家鹿紋太郎と出会って以降、ビクター在籍中二人三脚で楽曲を製作し現在の歌い手たかじんのスタイルを築くこととなった)。本人曰く「歌手一本で食えるようになるまで20年はかかった」という。

過去の出演番組[編集]
テレビ番組[編集]
レギュラー番組(冠番組・特番も含む)ヒット曲
01. やっぱ好きやねん        11.嘘を置き去りに
02. あんた             12 ひとり覚え
03. ICHIZU             13 もしも夢が叶うなら
04. 未練~still~           14 ついてくよ
05. 雨の吐息            15 なめとんか
06. 順子              16 大阪恋物語
07. 河の流れる街で                      その他、多数                    
08. いっぱいの酒
09. 生まれる前から好きやった
10. 悪党

                                   やしきたかじん・ゴールデン☆ベスト
※注:このサイトは、やしきたかじんに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2025年5月17日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
大阪を代表するシンガーソングライターであり、テレビ・ラジオでも大活躍したパーソナリティーでした。  今もファンの心の内に生き続けていることでしょう
    合掌

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このメッセージは、 2025年5月17日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
大阪を代表するシンガーソングライターであり、テレビ・ラジオでも大活躍したパーソナリティーでした。  今もファンの心の内に生き続けていることでしょう
    合掌
軌跡

(生い立ち)

大阪市西成区で男ばかり4人兄弟の次男として誕生。父親の権三郎は工場、パチンコ屋などを経営する裕福な家庭だったが、二度倒産を経験するなど浮き沈みも激しかった[10]。小学生の頃は野球に熱中し、強豪チームに所属。地元公立中学の野球部では主将、捕手、四番打者となり複数の野球強豪高校からの誘いもあったが、才能が無いときっぱりあきらめる[11]。一方、ラジオで聴いたコニー・フランシスの『ボーイ・ハント』で音楽に目覚め、ビートルズの『抱きしめたい』もレコードを購入。2歳上の兄に歌声を褒められ、音楽家を志すようになる[12]大阪市立成南中学校卒業。桃山学院高等学校在学中は新聞記者に憧れ新聞部に所属[13]朝日新聞社主催の全国新聞コンクールに入選も果たしている。