高橋 徹朗(てつろう)
生年月日 昭和24年 4月25日
没年月日 令和7年 1月8日
【モノづくりの町・生野生まれ】
徹朗おじいちゃんは、生まれも育ちもずっと生野区。男だらけの5人兄弟の末っ子で、小さい頃は両親の営む「佐藤金属」で両親共に働いていた為、生野保育園(現:南生野いちょう保育園)で朝早くから日が暮れるまで毎日過ごしたそうです。
そして生野小学校、生野中学校(現:生野未来学園)と進み、そこで澄子おばあちゃんと出会います。
さらに近畿大学に進学した後は、両親の後を継ぎ佐藤金属の跡取り息子として、特殊ミシンの部品をメインに職人としての技術を磨きました。
【ハワイ大学】
当時1ドル=300円以上するような時代に、徹朗おじいちゃんは近畿大学からハワイ大学へ1ヶ月間の留学をします。佐藤金属を継ぐという条件で佐藤のおじいちゃんが大金を出してくれたそうです。
人生を引き換えにしても行きたかったハワイ。ホームステイをしたり、シェアハウスをしたり、勉強もショッピングも遊びも満喫して、沢山の現地の友人とも交流した思い出のハワイは、後の新婚旅行先にも選び、現地の友人たちに花嫁の澄子おばあちゃんを紹介したそうです。
ただし、その時の友人たちがとっても美人だったので、澄子おばあちゃんがヤキモチを妬いて口をきいてくれなくなったという、ちょっと可愛いエピソードも。
【なんでも作れる職人さん】
徹朗おじいちゃんと言えば、油絵を習得していたり、ジオラマ、プラモデル、釣具、そして料理やお菓子までも手作りするほど本当に器用な人でした。さすがモノづくりの町、生野の職人さんです。「うちの工場は鉄が切れるんやから何でも作れる」とよく自慢気に言っていましたが、本当に文字通り「なんでも」作ってくれるんです。
林寺の家も、ほとんど徹朗おじいちゃんがDIYでリフォームしていました。築100年を超える木造建築ですから、それはもうあちこち傷みがありましたが、自分で材料を揃えたり調べながら大工仕事や、植木仕事もこなしていました。
【人物像】
若い頃はとにかくお酒とタバコ、パチンコ、麻雀が大好きだった徹朗おじいちゃん。特にお酒は周りが心配するほどよく飲む人で、勝手口には酒屋さんからケース買いするビール瓶がいつも何ケースも積み上がっていました。晩年は健康のため酒もタバコも辞めていましたが、きっと天国では「やっと飲めるわ〜」と言いながらビールや日本酒を楽しんでいることでしょう。
【大好きな澄子おばあちゃんとの旅立ち】
澄子おばあちゃんが倒れてから約3年間、献身的な介護をしてきた徹朗おじいちゃん。澄子おばあちゃんが入退院を繰り返す度、とても不安気で落ち着かない様子でした。
そして、いよいよ澄子おばあちゃんの病状が悪化し天国へ旅立ったわずか2日後、インフルエンザからの敗血症で、この世を去りました。享年77歳。
澄子おばあちゃんが心配で天国までついて行ってしまったのか、それとも澄子おばあちゃんが寂しくて連れて行ったのか…。
残された遺族は悲しみが2倍でしたが、長年愛し合ってきた2人にとっては、理想の形だったのかも知れません。
没年月日 令和7年 1月8日
【モノづくりの町・生野生まれ】
徹朗おじいちゃんは、生まれも育ちもずっと生野区。男だらけの5人兄弟の末っ子で、小さい頃は両親の営む「佐藤金属」で両親共に働いていた為、生野保育園(現:南生野いちょう保育園)で朝早くから日が暮れるまで毎日過ごしたそうです。
そして生野小学校、生野中学校(現:生野未来学園)と進み、そこで澄子おばあちゃんと出会います。
さらに近畿大学に進学した後は、両親の後を継ぎ佐藤金属の跡取り息子として、特殊ミシンの部品をメインに職人としての技術を磨きました。
【ハワイ大学】
当時1ドル=300円以上するような時代に、徹朗おじいちゃんは近畿大学からハワイ大学へ1ヶ月間の留学をします。佐藤金属を継ぐという条件で佐藤のおじいちゃんが大金を出してくれたそうです。
人生を引き換えにしても行きたかったハワイ。ホームステイをしたり、シェアハウスをしたり、勉強もショッピングも遊びも満喫して、沢山の現地の友人とも交流した思い出のハワイは、後の新婚旅行先にも選び、現地の友人たちに花嫁の澄子おばあちゃんを紹介したそうです。
ただし、その時の友人たちがとっても美人だったので、澄子おばあちゃんがヤキモチを妬いて口をきいてくれなくなったという、ちょっと可愛いエピソードも。
【なんでも作れる職人さん】
徹朗おじいちゃんと言えば、油絵を習得していたり、ジオラマ、プラモデル、釣具、そして料理やお菓子までも手作りするほど本当に器用な人でした。さすがモノづくりの町、生野の職人さんです。「うちの工場は鉄が切れるんやから何でも作れる」とよく自慢気に言っていましたが、本当に文字通り「なんでも」作ってくれるんです。
林寺の家も、ほとんど徹朗おじいちゃんがDIYでリフォームしていました。築100年を超える木造建築ですから、それはもうあちこち傷みがありましたが、自分で材料を揃えたり調べながら大工仕事や、植木仕事もこなしていました。
【人物像】
若い頃はとにかくお酒とタバコ、パチンコ、麻雀が大好きだった徹朗おじいちゃん。特にお酒は周りが心配するほどよく飲む人で、勝手口には酒屋さんからケース買いするビール瓶がいつも何ケースも積み上がっていました。晩年は健康のため酒もタバコも辞めていましたが、きっと天国では「やっと飲めるわ〜」と言いながらビールや日本酒を楽しんでいることでしょう。
【大好きな澄子おばあちゃんとの旅立ち】
澄子おばあちゃんが倒れてから約3年間、献身的な介護をしてきた徹朗おじいちゃん。澄子おばあちゃんが入退院を繰り返す度、とても不安気で落ち着かない様子でした。
そして、いよいよ澄子おばあちゃんの病状が悪化し天国へ旅立ったわずか2日後、インフルエンザからの敗血症で、この世を去りました。享年77歳。
澄子おばあちゃんが心配で天国までついて行ってしまったのか、それとも澄子おばあちゃんが寂しくて連れて行ったのか…。
残された遺族は悲しみが2倍でしたが、長年愛し合ってきた2人にとっては、理想の形だったのかも知れません。
高橋 澄子(すみこ)
生年月日 昭和24年 10月22日
没年月日 令和7年 1月6日
【生粋のお嬢様育ち】
澄子おばあちゃんは、高橋家の三姉妹・末っ子として生まれました。生まれた時から既に、お父さんである剛おじいちゃんが長者番付にのるほどの大金持ちだったので、買い物と言えばお出かけではなく、デパートの外商さんが家に来て着物など揃えてもらうのが普通だった、というほど生粋のお嬢様でした。
【経歴】
澄子おばあちゃんは、林寺の家の近くにある地元の愛和幼稚園から、林寺小学校(2022年閉校)、生野中学校(現:生野未来学園)、そして生野高校、短大(家政学部 中退)を経て、幼なじみの徹朗おじいちゃんと22歳で結婚しました。
【高校の部活で学んだ書道】
澄子おばあちゃんと言えば「書道教室」を長年営んできましたが、その歴史の始まりはなんと、高校の部活。当時から先生からとても褒められる腕前だったそうで、結婚して子育てが一段落した20代後半の頃に「なにか手に職をつけたい」と1から学び始め、数年のうちにみるみる上達!あっという間に師範まで登り詰め教室開業までに至りました。
【地域への貢献】
書道教室は林寺の家の二階からスタートし、字を書き始めの小さな子供から、杖をついて歩くような老人まで幅広く、硬筆・毛筆・ペン習字を教えていました。林寺小学校でもペン習字の講師として呼ばれ、一時は林寺センター前にも教室を借りていました。剛おじいちゃんが亡くなって家を継いでからは、林寺の家の1階を書道教室に改装し、亡くなる数年前、70歳を超える年齢まで、40年以上も地域の方々に書道を教え続けました。
【長く愛され続ける理由】
澄子おばあちゃんには、小学校から70年も仲良くしていた友人や、短大時代からの友人、そして書道教室で数多くの生徒さんに愛され続けました。もちろん徹朗おじいちゃんも澄子おばあちゃん一筋で、ずっと大切にされてきました。この、人を惹きつける魅力はきっと、性格の華やかさ、繊細さ、丁寧な生活を送るライフスタイルそのものの素晴らしさ、そしてたまに好き嫌いをハッキリ言う物怖じしない所もまた魅力だったのかもしれません。多くの人に愛された澄子おばあちゃんの人生はきっと、素晴らしいものだったと思います。
【晩年】
70歳を超えてから急に心不全で倒れ、そのままずっと在宅酸素でのケアが必要だったので、酸素に繋がれて心細い日々だったと思います。何度も入退院を繰り返してる中で、最後まで「家がいい」と言い続けました。だって澄子おばあちゃんにとっては、生まれ育ち、結婚し、老いていくまでを過ごした思い出深い林寺の家ですもんね。
最後には、医者からもう長くないと言われ、徹朗おじいちゃんが林寺の家に連れて帰りました。
2025年1月6日、澄子おばあちゃんの希望通り
林寺の家にて永眠。
没年月日 令和7年 1月6日
【生粋のお嬢様育ち】
澄子おばあちゃんは、高橋家の三姉妹・末っ子として生まれました。生まれた時から既に、お父さんである剛おじいちゃんが長者番付にのるほどの大金持ちだったので、買い物と言えばお出かけではなく、デパートの外商さんが家に来て着物など揃えてもらうのが普通だった、というほど生粋のお嬢様でした。
【経歴】
澄子おばあちゃんは、林寺の家の近くにある地元の愛和幼稚園から、林寺小学校(2022年閉校)、生野中学校(現:生野未来学園)、そして生野高校、短大(家政学部 中退)を経て、幼なじみの徹朗おじいちゃんと22歳で結婚しました。
【高校の部活で学んだ書道】
澄子おばあちゃんと言えば「書道教室」を長年営んできましたが、その歴史の始まりはなんと、高校の部活。当時から先生からとても褒められる腕前だったそうで、結婚して子育てが一段落した20代後半の頃に「なにか手に職をつけたい」と1から学び始め、数年のうちにみるみる上達!あっという間に師範まで登り詰め教室開業までに至りました。
【地域への貢献】
書道教室は林寺の家の二階からスタートし、字を書き始めの小さな子供から、杖をついて歩くような老人まで幅広く、硬筆・毛筆・ペン習字を教えていました。林寺小学校でもペン習字の講師として呼ばれ、一時は林寺センター前にも教室を借りていました。剛おじいちゃんが亡くなって家を継いでからは、林寺の家の1階を書道教室に改装し、亡くなる数年前、70歳を超える年齢まで、40年以上も地域の方々に書道を教え続けました。
【長く愛され続ける理由】
澄子おばあちゃんには、小学校から70年も仲良くしていた友人や、短大時代からの友人、そして書道教室で数多くの生徒さんに愛され続けました。もちろん徹朗おじいちゃんも澄子おばあちゃん一筋で、ずっと大切にされてきました。この、人を惹きつける魅力はきっと、性格の華やかさ、繊細さ、丁寧な生活を送るライフスタイルそのものの素晴らしさ、そしてたまに好き嫌いをハッキリ言う物怖じしない所もまた魅力だったのかもしれません。多くの人に愛された澄子おばあちゃんの人生はきっと、素晴らしいものだったと思います。
【晩年】
70歳を超えてから急に心不全で倒れ、そのままずっと在宅酸素でのケアが必要だったので、酸素に繋がれて心細い日々だったと思います。何度も入退院を繰り返してる中で、最後まで「家がいい」と言い続けました。だって澄子おばあちゃんにとっては、生まれ育ち、結婚し、老いていくまでを過ごした思い出深い林寺の家ですもんね。
最後には、医者からもう長くないと言われ、徹朗おじいちゃんが林寺の家に連れて帰りました。
2025年1月6日、澄子おばあちゃんの希望通り
林寺の家にて永眠。
高橋 剛(つよし)
生年月日 大正生まれ 1月19日
没年月日 平成17年 10月16日
【林寺の家】
剛おじいちゃんは、岐阜の大垣の生まれで8人兄弟の長男。林寺に引越して来たばかりの頃に、家を買った父親(曽祖父)が亡くなり、林寺の家のローンをほぼ全ておじいちゃんが頑張って支払ったそうです。また、若くして亡くなった父親代わりに、長男として妹や弟達を育て、大勢の兄弟が巣立っていくのを見送りました。
【第二次世界大戦】
大正生まれですので、第二次世界大戦の経験者でもあります。満州に渡って大砲係をし、道端に実るライチ(当時の日本ではとてもレアな食べ物)を食べて飢えを凌いだそうです。そんな過酷な戦況の中で生き残った人達とは、後に「戦友会」と呼ばれる会を結成し、亡くなる直前まで戦友との交流が続いていました。きっと現代の私達には想像もつかない経験を共有出来る仲間だったのでしょう。
【君代おばあちゃんとの結婚】
お見合いが主流の昭和初期に、2人はとっても大恋愛だったそうですが、詳しく聞くといつも顔を真っ赤にして何も教えてくれませんでした。
君代おばあちゃんから少しだけ聞き出した情報によると、プロポーズ直後に戦争の招集が来てしまい、4年間離ればなれの後、晴れて結婚。3人の娘(とし子・えい子・澄子)を授かり、君代おばあちゃんが69歳で亡くなるまで、2人が喧嘩してる姿を一度も見た事がないほどの仲の良いおしどり夫婦でした。
【人物像】
剛おじいちゃんは何に対しても、努力を惜しまない人でした。
若い頃は(株)栗本鐵工所の社長の側近として、長者番付に載るほど勤勉な人物で、仕事が出来るだけでなく、社内チームのラグビー選手としても活躍していました。
そして定年退職後は、君代おばあちゃんと二人で、年に何度も世界各国を飛び回り、観光を楽しんでいました。君代おばあちゃんは買い物を、剛おじいちゃんは色んな風景を水彩でスケッチして帰ってきます。
林寺の家の1階の縁側には常に、描きかけの油絵と絵の具がありました。海外でスケッチしてきた絵を油絵に仕上げるのは、いつもその場所です。
努力家なのは老後も変わらずで、旅行に行った先で困らないようにと英語、フランス語、ドイツ語など色んな言語をNHKのラジオで勉強していました。戦争があった時代背景を考えると、英語が話せるだけでも凄いのに、世界各国の言葉を操るのは本当に尊敬しかありません。
【長寿を全う】
岐阜の大垣から来た兄弟達を育て上げ、君代おばあちゃんとの素敵な結婚生活を過ごし、娘3人、孫、ひ孫にまで恵まれ、平成17年10月16日91歳、老衰でこの世を去りました。
没年月日 平成17年 10月16日
【林寺の家】
剛おじいちゃんは、岐阜の大垣の生まれで8人兄弟の長男。林寺に引越して来たばかりの頃に、家を買った父親(曽祖父)が亡くなり、林寺の家のローンをほぼ全ておじいちゃんが頑張って支払ったそうです。また、若くして亡くなった父親代わりに、長男として妹や弟達を育て、大勢の兄弟が巣立っていくのを見送りました。
【第二次世界大戦】
大正生まれですので、第二次世界大戦の経験者でもあります。満州に渡って大砲係をし、道端に実るライチ(当時の日本ではとてもレアな食べ物)を食べて飢えを凌いだそうです。そんな過酷な戦況の中で生き残った人達とは、後に「戦友会」と呼ばれる会を結成し、亡くなる直前まで戦友との交流が続いていました。きっと現代の私達には想像もつかない経験を共有出来る仲間だったのでしょう。
【君代おばあちゃんとの結婚】
お見合いが主流の昭和初期に、2人はとっても大恋愛だったそうですが、詳しく聞くといつも顔を真っ赤にして何も教えてくれませんでした。
君代おばあちゃんから少しだけ聞き出した情報によると、プロポーズ直後に戦争の招集が来てしまい、4年間離ればなれの後、晴れて結婚。3人の娘(とし子・えい子・澄子)を授かり、君代おばあちゃんが69歳で亡くなるまで、2人が喧嘩してる姿を一度も見た事がないほどの仲の良いおしどり夫婦でした。
【人物像】
剛おじいちゃんは何に対しても、努力を惜しまない人でした。
若い頃は(株)栗本鐵工所の社長の側近として、長者番付に載るほど勤勉な人物で、仕事が出来るだけでなく、社内チームのラグビー選手としても活躍していました。
そして定年退職後は、君代おばあちゃんと二人で、年に何度も世界各国を飛び回り、観光を楽しんでいました。君代おばあちゃんは買い物を、剛おじいちゃんは色んな風景を水彩でスケッチして帰ってきます。
林寺の家の1階の縁側には常に、描きかけの油絵と絵の具がありました。海外でスケッチしてきた絵を油絵に仕上げるのは、いつもその場所です。
努力家なのは老後も変わらずで、旅行に行った先で困らないようにと英語、フランス語、ドイツ語など色んな言語をNHKのラジオで勉強していました。戦争があった時代背景を考えると、英語が話せるだけでも凄いのに、世界各国の言葉を操るのは本当に尊敬しかありません。
【長寿を全う】
岐阜の大垣から来た兄弟達を育て上げ、君代おばあちゃんとの素敵な結婚生活を過ごし、娘3人、孫、ひ孫にまで恵まれ、平成17年10月16日91歳、老衰でこの世を去りました。
高橋 君代(きみよ)
生年月日 大正生まれ 8月4日
没年月日 平成3年 2月27日
【紀伊出身のハイカラさん】
君代おばあちゃんの生まれは、和歌山の紀伊。7人兄弟で、小学校卒業で就職する人も多い時代に、女学校(中高)まで卒業しています。
女学校卒業後は大阪に出て、当時最先端技術の「タイプライター」として勤め、そして剛おじいちゃんと出会い、大恋愛の末に結婚します。また、着物を着るのが普通だった時代であるにも関わらず洋裁がとっても上手で、いつもオシャレな洋服を着ている人でした。
当時、西洋文化を積極的に取り入れたお洒落な日本人は「ハイカラさん」と呼ばれており、君代おばあちゃんはまさにその「ハイカラさん」そのものでした。
【梅酒と梅干し】
梅の産地である紀伊出身の君代おばあちゃんは、梅酒作りと梅干し作りがとっても上手。6月になると毎年、家中に梅の香りが立ち込めるほど大量の梅を仕入れてきます。中でも昔ながらの塩辛い梅干しは、手間暇かかるけど本当に美味しくて、その味は娘の澄子おばあちゃんにも受け継がれました。
また、君代おばあちゃんの梅酒は何年もかけて熟成させるので、芳醇な香りがたまらない美味しさ。剛おじいちゃんはお酒があまり得意ではないのに、君代おばあちゃんの梅酒だけは美味しそうに呑んでいました。
【大好きだった水泳と旅行】
紀伊の実家の近くに川があったおかげで、子供の頃から泳ぐのが大好き。しかもスイミングの腕前はプロ級で、マスターズ(年齢区分ごとに競い合う全国規模の水泳大会)で何度も優勝をしています。
また、老後は剛おじいちゃんと2人で世界各国を旅します。ヨーロッパが特にお気に入りでしたが、アメリカ、ロシア、カナダ、中国など、とにかく自分の目で見て経験したいタイプで、沢山のお土産や写真と共に帰ってきます。
応接間の棚には、インディアン人形、オランダの木靴を履いた人形、トーテムポールなど、多種多様。
さらに仲の良い友人達とは「二八会」という会で主に国内旅行に定期的に参加していました。
【早すぎる死】
君代おばあちゃんは、普段ちょっとした風邪程度なら「泳いだら治る!」と言って泳ぎに行くほどパワフルな人でしたが、微熱があまりに長く続き、持病の糖尿病もあったので念の為一度検査入院しようと言うことになりました。
しかし、予定では1週間だけの入院のはずがみるみる悪化し、入院して僅か数ヶ月、69歳でこの世を去りました。
亡くなってから判明した病名は膠原病(おそらく全身性エリテマトーデス)、当時も今も治療困難な難病でした。
没年月日 平成3年 2月27日
【紀伊出身のハイカラさん】
君代おばあちゃんの生まれは、和歌山の紀伊。7人兄弟で、小学校卒業で就職する人も多い時代に、女学校(中高)まで卒業しています。
女学校卒業後は大阪に出て、当時最先端技術の「タイプライター」として勤め、そして剛おじいちゃんと出会い、大恋愛の末に結婚します。また、着物を着るのが普通だった時代であるにも関わらず洋裁がとっても上手で、いつもオシャレな洋服を着ている人でした。
当時、西洋文化を積極的に取り入れたお洒落な日本人は「ハイカラさん」と呼ばれており、君代おばあちゃんはまさにその「ハイカラさん」そのものでした。
【梅酒と梅干し】
梅の産地である紀伊出身の君代おばあちゃんは、梅酒作りと梅干し作りがとっても上手。6月になると毎年、家中に梅の香りが立ち込めるほど大量の梅を仕入れてきます。中でも昔ながらの塩辛い梅干しは、手間暇かかるけど本当に美味しくて、その味は娘の澄子おばあちゃんにも受け継がれました。
また、君代おばあちゃんの梅酒は何年もかけて熟成させるので、芳醇な香りがたまらない美味しさ。剛おじいちゃんはお酒があまり得意ではないのに、君代おばあちゃんの梅酒だけは美味しそうに呑んでいました。
【大好きだった水泳と旅行】
紀伊の実家の近くに川があったおかげで、子供の頃から泳ぐのが大好き。しかもスイミングの腕前はプロ級で、マスターズ(年齢区分ごとに競い合う全国規模の水泳大会)で何度も優勝をしています。
また、老後は剛おじいちゃんと2人で世界各国を旅します。ヨーロッパが特にお気に入りでしたが、アメリカ、ロシア、カナダ、中国など、とにかく自分の目で見て経験したいタイプで、沢山のお土産や写真と共に帰ってきます。
応接間の棚には、インディアン人形、オランダの木靴を履いた人形、トーテムポールなど、多種多様。
さらに仲の良い友人達とは「二八会」という会で主に国内旅行に定期的に参加していました。
【早すぎる死】
君代おばあちゃんは、普段ちょっとした風邪程度なら「泳いだら治る!」と言って泳ぎに行くほどパワフルな人でしたが、微熱があまりに長く続き、持病の糖尿病もあったので念の為一度検査入院しようと言うことになりました。
しかし、予定では1週間だけの入院のはずがみるみる悪化し、入院して僅か数ヶ月、69歳でこの世を去りました。
亡くなってから判明した病名は膠原病(おそらく全身性エリテマトーデス)、当時も今も治療困難な難病でした。