承継
この追悼サイトは、 スカルノ (インドネシア独立を果たした初代大統領)さまのために作成されました。

享年69歳 、誕生日 1901年6月6日、命日 1970年6月21日
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スカルノ(英語: Sukarno,インドネシア語: Soekarno[注釈 1],1901年6月6日 - 1970年6月21日)は、インドネシア植民地時代(オランダ領東インド時代)から民族主義運動、独立運動において大きな足跡を残した政治家である

独立宣言後、同国の初代大統領となり、雄弁な演説とカリスマ性によって、大衆の民族意識を鼓舞した1965年の「9月30日事件」によって失脚した後は不遇の晩年を送ったが、いまなお国民には「ブン・カルノ」(カルノ兄さん)と呼ばれ、国父(建国の父)として敬意をもって愛され続けており、紙幣(最高額面の10万ルピア)に肖像が使われている。

反植民地運動[編集]
250px-1930sukarnoprocestegenpni.jpg1930年代250px-Soekarno_and_Hatta.jpgモハマッド・ハッタとともに日本軍とともに(1942年)オランダによる過酷な植民地政策に対する反発を感じていたスカルノは、大学卒業とともに、本格的にオランダに対する反植民地運動を開始する。1927年7月4日には、宗主国のオランダ留学から帰国した同志らとともにインドネシア国民党(Partai Nasional Indonesia、略称PNI)を結成した

その後スカルノはインドネシアの独立と民族の統一を訴えるために各地で積極的に集会を開催し、壇上での熱のこもった演説で聴衆を魅了し、「民族の指導者」として認められるようになった。

1929年12月にオランダ植民地政府に逮捕されて禁錮刑を受けたが、1931年2月に恩赦をあたえられて出獄。しかし、1933年8月にはふたたび逮捕され、フローレス島エンデに、続いて1938年2月スマトラ島のベンクルに流刑となった。この流刑地となったベンクルでは、後に第1夫人となるファトマワティと出会い、結婚している

第二次世界大戦下[編集]
1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、1940年にオランダ本国がドイツに占領され(オランダにおける戦い)本国政府はイギリス亡命したが、その後もオランダ植民地政府による植民地支配は続いた。

その後1941年12月に大東亜戦争太平洋戦争)が始まると、アメリカ領フィリピンイギリス領マレー半島から宗主国の軍隊を放逐した日本軍が、またたくまにオランダ領東インド全域(=インドネシア)からオランダ軍を放逐し、オランダ植民地政府とその軍隊は、多くの兵器のみならず在留オランダ人や抑留されたドイツ人をも放置したままオーストラリアに逃げることとなった。

独立戦争[編集]
オランダ軍によりバンガ島に拉致されるスカルノとハッタ(1948年)しかし、オランダ軍は同協定の批准も済んでいない1947年1月24日に攻撃を再開し、その後スラバヤ、ジョグジャカルタ周辺への空爆も開始しつつ陸軍部隊がジョグジャカルタにも迫った。ここで成立したばかりの国際連合が介入、さらに、外交交渉による紛争の解決がはかられ、8月1日国際連合安全保障理事会で、即時停戦仲裁による和平解決をもとめる安保理決議27が採択された。この決議にもとづいて8月4日に停戦が成立したが、その後もオランダ軍の攻撃は止まなかった。

さらにオランダは1948年12月11日に和平会談決裂を宣言、12月19日に共和国領内への全面攻勢が開始され、その後共和国臨時首都ジョグジャカルタを陥落させた。オランダはスカルノと首相兼副大統領のハッタ、そして閣僚の大半を逮捕[2]バンカ島に幽閉した

しかし、イギリスやオーストラリアをはじめとする国際世論は植民地主義に固執するオランダを激しく非難し、国連安保理12月24日の決議でオランダに共和国指導者の釈放を要求した。かつての連合国のアメリカ合衆国もオランダへの経済援助の停止を通告し、和平協議復帰への圧力をかけた。

オランダに逮捕されていたスカルノらは1949年7月6日にジョグジャカルタに帰還し、7月13日にはスマトラの臨時政府を解消して、政府機能を復活させ和平協議を再開させた。この結果、1949年12月のハーグ協定の締結によってオランダはインドネシアを放棄することになる

独立後[編集]
250px-Sukarno_with_Mao_Zedong%2C_Bung_Karno_Penjambung_Lidah_Rakjat_244.jpg訪中時、毛沢東と(1956年)ジャワハルラール・ネルー夫妻とともにオランダからの独立を達成し、宗主国であったオランダのみならず、イギリスやオーストラリア、アメリカやフランスなど世界各国からの国家承認と援助を受けて独立国家としての一歩を踏み出したものの、オランダへの多額の債務補償を含む植民地時代からの「負の遺産」を多く抱えたその後のインドネシア、そしてインドネシア大統領となったスカルノの前途は多難を極めることとなった

1945年8月以降の対オランダ独立戦争期を通してオランダ植民地政府が執った、インドネシア独立運動各勢力の分裂工作の影響を受けて、国内統治機構は中央においても地方においても権力が分散しており、独立後に成立した諸政権による政治運営はいちじるしく困難をきわめた

建国後のインドネシアは原油ゴムの輸出によって経済を再建するとともに、政治的には議会制民主主義を忠実に実行したが、独立後より大統領職にあったスカルノは、1950年8月15日のオランダからの完全独立時に急ぎ採用された新憲法(1950年憲法)のもとでは強い権力を付与されておらず、リーダーシップを発揮できない状況にあり、インドネシア国民は困難な国政運営に対して有効な手立てを打てない政党政治家たちへの不信、不満を強めていった。

このような政局の混乱を収拾するべくして行なわれた同国初の総選挙(1955年)におけるスカルノの勝利、そしてその結果を受けて実施された議院内閣制によっても、事態は打開されなかった。インドネシアは、オランダによる過酷な植民地支配からの脱却を勝ち取った末の民族の統一を目指すはずが、現実には国家分裂の危機へと向かっていた。

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※注:このサイトは、スカルノに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2025年5月27日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
インドネシア独立と、独立後の国政運営に生涯を賭けたスカルノ氏の足跡を、いつまでも忘れてはなりません。  国際紛争多発の今こそ再確認する時でしょう。
     合掌

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このメッセージは、 2025年5月27日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
インドネシア独立と、独立後の国政運営に生涯を賭けたスカルノ氏の足跡を、いつまでも忘れてはなりません。  国際紛争多発の今こそ再確認する時でしょう。
     合掌
軌跡

(生い立ち)

オランダが長年植民地として支配していたジャワ島東部の都市スラバヤ生まれ。父はジャワの下級貴族の出身で小学校教師、母はバリ人貴族の出身でヒンドゥー教徒だった。

名前の「スカルノ」は、ジャワのワヤン劇(インドの古代叙事詩『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』に基づいている)に登場する武芸の達人「カルノ karno[1]」(ガウォンゴ国王スルヨプトロ)に由来。ここから「S.Karno」と署名した事もあったという。

幼い頃からオランダ語を学び、原住民学校を卒業した後、ヨーロッパ人子弟の通う小学校を経て、スラバヤの高等市民学校(HBS)に入学した。

同校を1921年に卒業後、植民地の宗主国オランダが1920年バンドンに創設した高等工業学校(現バンドン工科大学)に入学。1926年5月に卒業している。