この追悼サイトは、 崔 洋一(映画監督、脚本家、俳優、大学教授)さまのために作成されました。
享年73歳 、誕生日 1949年7月6日、命日 2022年11月27日
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崔 洋一(さい よういち、朝: 최양일、男性、1949年〈昭和24年〉7月6日 - 2022年〈令和4年〉11月27日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優。在日韓国人2世。
日本映画監督協会理事長、宝塚大学教授、株式会社ネクステップ顧問、スカパーJSATグループ番組審議会委員、民間放送教育協会理事[1]を歴任。
1968年(昭和43年)、東京朝鮮中高級学校高級部を卒業[3]。東京綜合写真専門学校中退[3]。写真学校在学中の20歳のころ、主に近代映画協会で撮影助手の仕事をしていた先輩に勧められ[3]、近代映画協会とは関係のない今井正監督の『婉という女』(ほるぷ映画製作・東宝配給)の現場に就く[3]。その先輩はいずれ朝鮮人でスタッフを固めて映画を作りたいという目論見があり[3]、当時朝鮮人のいなかった照明助手を務め、映画の現場に入る[3]。『婉という女』は90%セット撮影で現場に2ヵ月就き、映画の面白さと同時に非民主的な縦社会の映画の現場を知り、「監督にならなければ話にならない」と悟る[3]。小道具、美術助手、進行など現場スタッフを経た後、当時、労働争議が盛んだった東映東京撮影所が人気テレビドラマ『キイハンター』を外注に出さざるを得なくなり[3]、同番組で助監督デビューした[3]。以降、主に東映作品を中心に[3]、すぐにチーフ助監督に昇格し[3]、9年間、約100人の監督の許で助監督を務める[3]。この間、伊藤俊也や梶間俊一らを中心とした東映大泉の労働運動「東契労」「東制労」を支持した(契約社員は労働運動に参加できない)[3]。その後、1976年(昭和51年)の『愛のコリーダ』(監督大島渚、主演藤竜也)、1978年(昭和53年)の『最も危険な遊戯』(監督村川透、主演松田優作)のチーフ助監督などを務めた。崔は100人近い監督に就いていたことから、作風に影響を受けた師匠と呼べる人物はいないものの、大島渚、若松孝二、荒井晴彦、澤田幸弘には映画に対する考え方で影響を受けた可能性について言及している[3]。
1981年(昭和56年)、テレビドラマ『プロハンター』(主演草刈正雄、藤竜也)で監督デビュー。同作のプロデューサーであった日本テレビの山口剛、セントラルアーツの黒澤満のプロデュースのもと、「火曜サスペンス劇場」を2作撮り、満を持して1983年(昭和58年)、『十階のモスキート』(主演内田裕也)でスクリーンに本格的にデビューする。同作はヴェネツィア国際映画祭にも出品され、1984年(昭和59年)、毎日映画コンクールスポニチグランプリ新人賞を受賞した。
1993年(平成5年)、日本衛星放送(現WOWOW)のプロデューサー仙頭武則が立ち上げた「J・MOVIE・WARS」シリーズでのテレビ映画『J・MOVIE・WARS 月はどっちに出ている』(主演石橋凌)にひきつづき、シネカノンの李鳳宇のプロデュースのもとに手がけた『月はどっちに出ている』(主演岸谷五朗)で報知映画賞、ブルーリボン賞、毎日映画コンクール、第17回日本アカデミー賞では優秀監督賞、優秀脚本賞を受賞した[4]。
1994年(平成6年)、朝鮮籍から韓国籍に変更した。李鳳宇と共に韓国を初訪問。1996年(平成8年)には文化庁新進芸術家在外研修員として単身韓国の延世大学に留学、同国の映画人たちとの交流をはかる。
1999年(平成11年)、映画『豚の報い』(主演小澤征悦)で第52回ロカルノ国際映画祭金豹賞にノミネートされ、ドンキホーテ賞(国際シネクラブ賞)を受賞した[5]。また自作のWOWOW版『月はどっちに出ている』に「タクシー会社の課長」役で出演以来、俳優としての活動も頻繁になり、ついに同年、俳優として『御法度』(監督大島渚)に近藤勇役で出演、翌2000年(平成12年)の第53回カンヌ国際映画祭の地を大島監督、ビートたけし、松田龍平とともに踏んだ。

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享年73歳 、誕生日 1949年7月6日、命日 2022年11月27日
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崔 洋一(さい よういち、朝: 최양일、男性、1949年〈昭和24年〉7月6日 - 2022年〈令和4年〉11月27日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優。在日韓国人2世。
日本映画監督協会理事長、宝塚大学教授、株式会社ネクステップ顧問、スカパーJSATグループ番組審議会委員、民間放送教育協会理事[1]を歴任。
来歴・人物
長野県佐久市生まれ[2][3]。父は在日朝鮮人、母は日本人のハーフ。1968年(昭和43年)、東京朝鮮中高級学校高級部を卒業[3]。東京綜合写真専門学校中退[3]。写真学校在学中の20歳のころ、主に近代映画協会で撮影助手の仕事をしていた先輩に勧められ[3]、近代映画協会とは関係のない今井正監督の『婉という女』(ほるぷ映画製作・東宝配給)の現場に就く[3]。その先輩はいずれ朝鮮人でスタッフを固めて映画を作りたいという目論見があり[3]、当時朝鮮人のいなかった照明助手を務め、映画の現場に入る[3]。『婉という女』は90%セット撮影で現場に2ヵ月就き、映画の面白さと同時に非民主的な縦社会の映画の現場を知り、「監督にならなければ話にならない」と悟る[3]。小道具、美術助手、進行など現場スタッフを経た後、当時、労働争議が盛んだった東映東京撮影所が人気テレビドラマ『キイハンター』を外注に出さざるを得なくなり[3]、同番組で助監督デビューした[3]。以降、主に東映作品を中心に[3]、すぐにチーフ助監督に昇格し[3]、9年間、約100人の監督の許で助監督を務める[3]。この間、伊藤俊也や梶間俊一らを中心とした東映大泉の労働運動「東契労」「東制労」を支持した(契約社員は労働運動に参加できない)[3]。その後、1976年(昭和51年)の『愛のコリーダ』(監督大島渚、主演藤竜也)、1978年(昭和53年)の『最も危険な遊戯』(監督村川透、主演松田優作)のチーフ助監督などを務めた。崔は100人近い監督に就いていたことから、作風に影響を受けた師匠と呼べる人物はいないものの、大島渚、若松孝二、荒井晴彦、澤田幸弘には映画に対する考え方で影響を受けた可能性について言及している[3]。
1981年(昭和56年)、テレビドラマ『プロハンター』(主演草刈正雄、藤竜也)で監督デビュー。同作のプロデューサーであった日本テレビの山口剛、セントラルアーツの黒澤満のプロデュースのもと、「火曜サスペンス劇場」を2作撮り、満を持して1983年(昭和58年)、『十階のモスキート』(主演内田裕也)でスクリーンに本格的にデビューする。同作はヴェネツィア国際映画祭にも出品され、1984年(昭和59年)、毎日映画コンクールスポニチグランプリ新人賞を受賞した。
1993年(平成5年)、日本衛星放送(現WOWOW)のプロデューサー仙頭武則が立ち上げた「J・MOVIE・WARS」シリーズでのテレビ映画『J・MOVIE・WARS 月はどっちに出ている』(主演石橋凌)にひきつづき、シネカノンの李鳳宇のプロデュースのもとに手がけた『月はどっちに出ている』(主演岸谷五朗)で報知映画賞、ブルーリボン賞、毎日映画コンクール、第17回日本アカデミー賞では優秀監督賞、優秀脚本賞を受賞した[4]。
1994年(平成6年)、朝鮮籍から韓国籍に変更した。李鳳宇と共に韓国を初訪問。1996年(平成8年)には文化庁新進芸術家在外研修員として単身韓国の延世大学に留学、同国の映画人たちとの交流をはかる。
1999年(平成11年)、映画『豚の報い』(主演小澤征悦)で第52回ロカルノ国際映画祭金豹賞にノミネートされ、ドンキホーテ賞(国際シネクラブ賞)を受賞した[5]。また自作のWOWOW版『月はどっちに出ている』に「タクシー会社の課長」役で出演以来、俳優としての活動も頻繁になり、ついに同年、俳優として『御法度』(監督大島渚)に近藤勇役で出演、翌2000年(平成12年)の第53回カンヌ国際映画祭の地を大島監督、ビートたけし、松田龍平とともに踏んだ。
監督 - 映画
- 1983年 『十階のモスキート』(ニュー・センチュリー・プロデューサーズ)
- 1983年 『性的犯罪』(にっかつ)
- 1984年 『いつか誰かが殺される』(東映、角川春樹事務所)
- 1985年 『友よ、静かに瞑れ』(角川春樹事務所)
- 1987年 『黒いドレスの女』(角川春樹事務所)
- 1988年 『花のあすか組!』(角川春樹事務所)
- 1989年 『Aサインデイズ』(大映)
- 1991年 『襲撃 BURNING DOG』(東映ビデオ)
- 1993年 『J・MOVIE・WARS 月はどっちに出ている』(日本衛星放送、ヒルヴィラ、東映)
- 1993年 『月はどっちに出ている』(シネカノン)
- 1995年 『平成無責任一家 東京デラックス』(アミューズ、シネカノン、テレビ東京)
- 1995年 『マークスの山』(松竹、アミューズ、丸紅)
- 1998年 『犬、走る。DOG RACE』(東映ビデオ)
- 1999年 『豚の報い』(サンセントシネマワークス)
- 2002年 『刑務所の中』(ビーワイルド、衛星劇場)
- 2004年 『クイール』(松竹、テレビ東京、テレビ大阪、衛星劇場ほか)
- 2004年 『血と骨』(「血と骨」製作委員会)
- 2007年 『ス SOO』(原題『수』、製作TrizCLUB)※初の韓国映画
- 2009年 『カムイ外伝』(配給:松竹、製作プロダクション:ビーワイルド[6])

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