承継
この想いでサイトは、私たちの愛する人 ヴィヴィアン・リー(イギリスの女優)さんを記念して作成されました。

※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:ヴィヴィアン・リー(Vivien Leigh, Lady Olivier)
墓地川葬(ストーンブリッジ,イギリス)

ヴィヴィアン・リー(Vivien Leigh, Lady Olivier、1913年11月5日 - 1967年7月8日)は、イギリス女優1939年の映画『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラ役と1951年の映画『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワ役でアカデミー主演女優賞を受賞した。『欲望という名の電車』は、1949年にロンドンウェスト・エンドで上演された舞台版に引き続いてリーがブランチ・デュボワを演じた作品でもある。また、1963年のブロードウェイ・シアターで上演されたミュージカル『トヴァリッチ』 (Tovarich) で、トニー賞ミュージカル主演女優賞を受賞している。2度の結婚歴と離婚歴がある。元夫の一人にローレンス・オリヴィエがいる[2]
女優としてのキャリア初期[編集]ヴィヴィアンは友人たちの勧めで、1935年の映画作品『Things Are Looking Up』に出演し、この作品の端役で女優としてデビューした。ヴィヴィアンが契約していた代理人のジョン・グリッドンは「ヴィヴィアン・ホルマン (Vivian Holman) 」という名前が女優として相応しくないと考えた。グリッドンが考えた「エイプリル・モーン」という名前が気に入らなかったヴィヴィアンは、夫ハーバートのミドルネームの「リー」をラストネームに借用し、さらに自身のファーストネーム「ヴィヴィアン (Vivian )」の綴りの「a」を「e」に変更して「ヴィヴィアン・リー (Vivien Leigh)」という芸名を名乗ることを決めた。グリッドンはリーを映画女優として映画監督アレクサンダー・コルダに推薦したが、このときコルダはリーに将来性が欠けているとして出演を断っている[16]。1935年に舞台作品『美徳の仮面 (The Mask of Virtue)』に出演したリーは高い評価を受け、複数のインタビューや新聞記事にとりあげられた。タブロイド紙『デイリー・エクスプレス』のインタビュー記事ではリーのことを「すばやくころころと変わる表情」と表現している。この記事が、後にリーの特徴となっていく「気まぐれ」に最初に言及した公的なコメントだといわれている
『風と共に去りぬ』は公開直後から注目され、主役のスカーレットを演じたリーは絶賛された。しかしながらリーは「私は映画スターではなく女優です。映画スター、そう映画スターなどというのは嘘だらけの暮らしでしょう。偽りの価値観と虚栄のための生き方です。(それに比べて)女優は人生すべてを費やすに値する仕事であり、いつだって素晴らしく重要な役割なのです」と語っている[26]風と共に去りぬ』は作品賞をはじめ10部門でアカデミー賞を受賞し、リーも主演女優賞を受賞した。さらにリーはニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞も受賞している。

ローレンス・オリヴィエとの結婚[編集]
220px-Vivien_Leigh_in_Waterloo_Bridge_trailer_c.jpg
哀愁(1940年)で踊り子マイラ・レスター役を演じたリー。1940年2月になって、オリヴィエの妻ジル・エズモンドとリーの夫ホルマンはどちらも離婚に合意した。ただし、両人共にリーとの深い交友関係はその後も生涯続いている。オリヴィエの息子タルキンの親権は母親のエズモンドが、リーの娘スーザンの親権は父親のホルマンがそれぞれ得ている。1940年8月31日にオリヴィエとリーはカリフォルニア州サンタバーバラの高級ホテルであるサン・イシドロ・ランチ (San Ysidro Ranch) で結婚した。結婚式には立会人として女優キャサリン・ヘプバーンと劇作家ガーソン・ケニンの2人しか招かれていない。結婚したリーはオリヴィエとの共演を望み、オリヴィエが主役の一人を演じることになっていたアルフレッド・ヒッチコックの監督作品『レベッカ』のスクリーンテストを受けた。しかしながら、スクリーンテストを確認したプロデューサーのセルズニックは「彼女(リー)には、誠実さ、若々しさ、純真さが欠けていると感じる」と判断し、監督ヒッチコックやリーの恩師ジョージ・キューカーもこの判断を支持した[28]                          セルズニックは、オリヴィエの出演が決まるまでリーが『レベッカ』に興味を示していなかったと考えており、主役の「わたし」にはジョーン・フォンテインを選んだ。さらにセルズニックは、リーがオリヴィエとの共演を望んだ『高慢と偏見』でも、リーではなくグリア・ガースンを起用した。また、1940年の映画『哀愁』はリーとオリヴィエの共演が予定されていたが、セルズニックはオリヴィエを外して、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの看板スターで、当時人気絶頂だったロバート・テイラーを起用しているこの映画にかけられた莫大な宣伝費用は主役を演じたリーのハリウッドでの地位を示すもので、『哀愁』は観客からも批評家たちからも高評価を得た[29]
ウエスト・エンドでの舞台『欲望という名の電車』は326回に及ぶ公演を重ねて幕を閉じ、その後すぐに映画化が決まった『欲望という名の電車』へのリーの出演が決まった。リーの傲岸さと、ときに下品なユーモアセンスを気に入った共演者のマーロン・ブランドとの仲は良好だったが、リーのことを一流の女優だとは認めていなかった監督のエリア・カザンとの関係はぎくしゃくしていた。後に「彼女(リー)の才能は微々たるものだった」とコメントしたこともあるカザンだったが、撮影が進むにつれてリーが「自身が知るどの女優よりも優れた演技を見せると固く心に決めた。彼女(リー)はもし演技に必要であれば、砕けたガラスの上に這いつくばる覚悟だった」と「大いなる賞賛」を与えている。それでもリーはこの映画のブランチ・デュボア役を演じることに疲れ果てており、『ロサンゼルス・タイムズ』紙に「私は劇場で9カ月間ブランチ・デュボアを演じていました。それが今では彼女(ブランチ)が私を牛耳っています」と語っている[38]。この作品の撮影中はオリヴィエもリーと共にハリウッドに滞在しており、ウィリアム・ワイラー監督作品『黄昏』に出演し、ジェニファー・ジョーンズと共演している。

映画版『欲望という名の電車』は高く評価され、リーは2度目となるアカデミー主演女優賞と英国アカデミー最優秀英国女優賞ニューヨーク映画批評家協会主演女優賞を受賞した。原作者テネシー・ウィリアムスはリーがブランチ・デュボアに「私が意図したあらゆるもの、そして私が夢にも思わなかった多くのもの」をもたらしてくれたと感謝を表しているが、後年にリーはブランチ・デュボアを演じたことは「倒れそうで、気が狂わんばかりだった」と振り返っている[39]
病気との闘い
1960年にリーとオリヴィエは正式に離婚した。その後まもなくオリヴィエは20歳以上年下の女優ジョーン・プロウライトと3度目の結婚をしている。オリヴィエの伝記作家は、オリヴィエがリーの病気のために何年も精神的に追い詰められていたとしている。「いつも彼女(リー)は躁鬱という不気味で恐ろしい怪物を飼っており、極めて危険で張り詰めた精神状態を繰り返していた。彼女は独特の抜け目のなさを備えていて、ほとんどの人間に対しては自分の精神状態をうまく隠していた。だけど私に対しては別だった。私が彼女に辛く当たることは考えてもいなかっただろうから[4]」。
受賞[編集]年度賞作品名1939年アカデミー賞 主演女優賞 受賞[65]
ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞受賞[66]風と共に去りぬ1951年アカデミー賞 主演女優賞 (受賞)[65]
英国アカデミー賞 最優秀英国女優賞受賞[67]
ゴールデングローブ賞 ドラマ部門主演女優賞(ノミネート)[68]
ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞受賞[69]
ヴェネツィア国際映画祭 女優賞受賞[67]欲望という名の電車』1963年トニー賞 ミュージカル主演女優賞受賞[70]『トヴァリッチ』1965年フィルム・デイリー紙 助演女優賞受賞[70]『愚か者の船』出演作品[編集]出演映画[編集]公開年邦題
原題役名備考1935年万事上向き
Things Are Looking Up女学生端役。クレジットなし。日本未公開。
英国でビデオのみ発売。
1934年作品と書かれている本もある[71][72]田舎紳士
The Village Squireローズ日本未公開。全世界でビデオ・DVD発売なし。
リーは2作目にして主演女優[3]紳士協定
Gentlemen's Agreement[73]フィル・スタンリー日本未公開。英国映画協会(BFI)によると、
この作品のフィルムは現存していないという[74][75]
リーは主演女優。見つめて笑え
Look Up And Laughマージョリー・ベルファー脇役。日本未公開。日本ではビデオ・DVD発売なし。1937年無敵艦隊
Fire Over Englandシンシア脇役。間諜
Dark Journeyマドレーヌ・ゴダール茶碗の中の嵐
Storm in a Teacupヴィクトリア・ガウ
(ヴィッキー)1938年響け凱歌
A Yank at Oxfordエルザ脇役。『哀愁』のロバート・テイラーとの初共演。
日本ではビデオ・DVD発売なし。セント・マーティンの小径
St. Martins Laneリビー日本未公開。1939年風と共に去りぬ
Gone with the Windスカーレット・オハラアカデミー主演女優賞 受賞
ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞 受賞
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞演技賞 受賞1940年21日間
Twenty-One Daysワンダ1937年撮影。日本未公開。2003年1月5日にNHK衛星第2で放送[76]
日本ではビデオ・DVD発売なし。哀愁
Waterloo Bridgeマイラ1941年美女ありき
That Hamilton Womanエマ・ハミルトン1945年シーザーとクレオパトラ
Caesar and Cleopatraクレオパトラ1948年アンナ・カレニナ
Anna Kareninaアンナ・カレニナ1951年欲望という名の電車
A Streetcar Named Desireブランチ・デュボアアカデミー主演女優賞 受賞
ヴェネチア国際映画祭 女優賞 受賞
英国アカデミー賞 主演女優賞 受賞1955年愛情は深い海のごとく
The Deep Blue Seaヘスター・コリヤー全世界でビデオ・DVD発売なし。1961年ローマの哀
The Roman Spring of Mrs. Stoneカレン・ストーン1965年愚か者の船
Ship of foolメアリー・ドレッドウェルフィルム・デイリー紙 助演女優賞 受賞

       Rhett Butler embraces Scarlett O'Hara in a famous scene from the 1939 epic film Gone with the Wind.
       「風と共に去りぬ」 クラーク・ゲーブルと共演
             スカーレット・オハラを演じる

  • ※注:このサイトは、ヴィヴィアン・リーに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝
このメッセージは、 2023年3月9日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
ヴィヴィアン・リーは1950年代に活躍した大スターです。 歴史に残る絶世の美女は沢山いるけど、そういう「美女と呼ばれる人」とヴィヴィアンとの違いは、彼女らはキュートやコケティッシュ、セクシーなど他の形容ができる一方でヴィヴィアン・リーは「美女」以外に形容のしようが無かった。 それくらい魅力的でした!
このメッセージは、 2023年2月25日に、墓マイラー趣味クラブさんが投稿
20世紀で最も美しい女優ではないでしょうか。映画『風と共に去りぬ』の名作、お墓はなく火葬後に散骨でした。Scattered on the lake at Tickerage Mill, near Blackboys ご冥福をお祈り申し上げます

メッセージの投稿

 
メッセージ
このメッセージは、 2023年3月9日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
ヴィヴィアン・リーは1950年代に活躍した大スターです。 歴史に残る絶世の美女は沢山いるけど、そういう「美女と呼ばれる人」とヴィヴィアンとの違いは、彼女らはキュートやコケティッシュ、セクシーなど他の形容ができる一方でヴィヴィアン・リーは「美女」以外に形容のしようが無かった。 それくらい魅力的でした!
このメッセージは、 2023年2月25日に、墓マイラー趣味クラブさんが投稿
20世紀で最も美しい女優ではないでしょうか。映画『風と共に去りぬ』の名作、お墓はなく火葬後に散骨でした。Scattered on the lake at Tickerage Mill, near Blackboys ご冥福をお祈り申し上げます
軌跡

(二大作品)

「風と共に去りぬ」は、強く逞しい女性の生きざまを見事に演じて感動を呼びました。

「哀愁」では、戦争に引き裂かれる男女の悲恋に、心震えるほどの女性を演じて観る人の涙を誘わずにはいられませんでした。 戦争を憎む気持ちは、いつの世も変わりませんね。


(スカーレット・オハラは、私のもの)

無名女優だけど超強気だった。
ヴィヴィアン・リーのすごいところは、「私は、〇〇〇する」と決心して宣言したが最後、身も世もなく突進して、それを成し遂げずにはいられないところでした。

なぜスカーレット役が、そんなにもハマったのか?
一つは、根本として彼女とスカーレットが性格的に似ていたから
二つ目の理由は、当然ながら彼女がーーその狂気のようなところも含めてーー素晴らしい女   
  優だったからではないでしょうか