この追悼サイトは、 三國 連太郎(日本を代表する名優の一人「飢餓海峡・ビルマの竪琴」さまのために作成されました。
享年90歳 、誕生日 1923年1月20日、命日 2013年4月14日
※ 三國さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
三國 連太郎(みくに れんたろう、1923年〈大正12年〉1月20日 - 2013年〈平成25年〉4月14日[1])は、日本の俳優、映画監督。本名は佐藤 政雄(さとう まさお)。
息子は俳優の佐藤浩市、孫は俳優の寛一郎。群馬県太田市生まれ[2]、静岡県出身[3]。身長178cm、体重70kg[4]。
その徹底的な役作りは真骨頂と評され、エピソードも残している[5]。
中学時代は水泳部で活動したが、2年生で退学した。これより父親の怒りを買ってしまい、暴力から逃れるため下田港から密航を企て青島へ渡った。その後釜山で弁当売りをし、帰国後には大阪で皿洗い、ペンキ塗り、旋盤工などさまざまな職に就く[2][14]。
1948年(昭和23年)、女児を身籠もっていた妻と離婚して鳥取県倉吉へ行く[2]。近くの三朝温泉へ行ったとき、戦争中に満蒙開拓団に関係していた人と知り合いになり、その紹介で県農業会(のちの農業協同組合)に入り[17][23]、組合長の秘書を務めながら農村工業課を新設[2]、サツマイモの澱粉からグルコースを採取する作業を指導する[23]。まもなく土地の資産家の娘と再婚[2]。
同年12月[2]、27歳のとき[3]、東銀座を歩いていたところ松竹のプロデューサー小出孝にスカウトされ、松竹大船撮影所に演技研究生として入る[23]。スカウト時には、プロデューサーの「大船のスタジオにカメラテストに来てくれないか」との言葉に、「電車代と飯代を出してくれるなら」と答えたと述懐している[24]。またこの映画界入りの背景は偶然ではなく、東銀座でのスカウトの際、松竹の「あなたの推薦するスター募集」に、倉吉時代に出入りしていた写真館の主人が三國の写真を送っていたことを知る[2]。
1951年(昭和26年)、木下惠介の監督映画『善魔』に、レッドパージで出演取り止めとなった岡田英次の代役として松山善三の推薦により抜擢されデビュー[1]、役名の「三國連太郎」を芸名にする[2]。この演技により第2回ブルーリボン新人賞を受賞する。デビュー当時、松竹が紹介した経歴は、本名、生年月日、身長、体重を除いてほとんどが嘘だらけだったが、それもまた役者の象徴として平然と聞き流すのに対して、木下は俳優としての本質的な良さを認め、三國もその資質を活かすことに努める[2]。また、木下の勧めで3か月ほど俳優座に通った。
1952年(昭和27年)1月、東宝が稲垣浩の監督作品『戦国無頼』への出演を希望し松竹に出演許可を求めるが、三國がまだ演技研究生で松竹社員であることを理由に拒否される[2]。しかし東宝は松竹の間に正式契約がないことを確認して本人と交渉を進め、三國を巡る松竹・東宝の争奪戦がマスコミの話題となる[2]。三國が自ら『戦国無頼』のクランクインに参加したため、松竹は3月19日、正式に解雇する[2]。三國は出演ののち、東宝と年間4本の出演契約を結んだ[2]。これらの一件を通じて、義理人情を欠く「アプレ・スター」と叩かれた[2]。
この間に2度目の離婚。翌1953年(昭和28年)に3度目の結婚をしている[2]。
1954年(昭和29年)、稲垣監督『宮本武蔵』出演中に映画製作を再開した日活の『泥だらけの青春』に出演すると発表、東宝が折れ出演を果たす[2]。その直後、「五社協定違反者第1号」に指定される[2]。松竹大船撮影所の門扉に「犬・猫・三國、入るべからず」との看板が取り付けられたという[25]。
1955年(昭和30年)、日活と専属契約を結び、1956年(昭和31年)10月末、契約切れとともにフリーとなる[2]。
1959年(昭和34年)9月、他社出演の自由を条件に東映と専属契約、1965年(昭和40年)4月、東映を離れてフリーとなる[2]。
専属契約とフリーを繰り返す傍ら、1963年10月、映画会社「日本プロ」を設立[2]。第1作として『台風』を企画・監督するが、東映が「専属俳優に独立プロ活動は許さない」と反対し配給が叶わず公開中止となる[2]。その後1969年8月、プロダクション「APC」を設立[2]。テレビ映画やCM制作を行い、1972年3月には自主製作映画『岸辺なき河』の撮影に入るが未完となった[2]。
1984年(昭和59年)、紫綬褒章を受章。1986年(昭和61年)には映画『親鸞・白い道』[注 2]を製作・監督し、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞。その後は『釣りバカ日誌』シリーズ(1988年 - 2009年)の「鈴木社長」役で活躍。『釣りバカ日誌』シリーズで第33回日本アカデミー賞会長功労賞を受賞。
1993年(平成5年)、勲四等旭日小綬章を受章[26]。

切腹(1962年) 釣りバカ日誌
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享年90歳 、誕生日 1923年1月20日、命日 2013年4月14日
※ 三國さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
三國 連太郎(みくに れんたろう、1923年〈大正12年〉1月20日 - 2013年〈平成25年〉4月14日[1])は、日本の俳優、映画監督。本名は佐藤 政雄(さとう まさお)。
息子は俳優の佐藤浩市、孫は俳優の寛一郎。群馬県太田市生まれ[2]、静岡県出身[3]。身長178cm、体重70kg[4]。
概要
個性派俳優として日本映画界を牽引し、圧倒的存在感をスクリーンに残した、日本を代表する名優の一人。デビュー以後、『ビルマの竪琴』(1956年)、『飢餓海峡』(1965年)、『はだしのゲン』(1976年)、『ひかりごけ』(1992年)など社会派作品から、『未完の対局』(1982年)、『三たびの海峡』(1995年)、『大河の一滴』(2001年)など中国を中心にした国際合作、『犬神家の一族』(1976年)、『野性の証明』(1978年)、『マルサの女2』(1988年)などの娯楽大作まで、主演・助演を問わず幅広く出演、映画出演の本数は180本余りに及ぶ[2]。その徹底的な役作りは真骨頂と評され、エピソードも残している[5]。
来歴
生い立ち
母親は静岡県伊豆半島の漁村で網元の娘として生まれたが[6][7][8]、船が沈没して一家離散により[6][7][8]、広島県呉市の海軍軍人の家に女中奉公に出され、17歳の時に三國を身籠り追い出されて帰郷した[6][7][8][9]。帰郷の途であった静岡県沼津港で父親と出会い[8]、1922年に父親の仕事先であった群馬県太田市にて結婚、翌年1923年1月に三國が生まれた[7][8][10][11]。この育ての父親は電気工事の渡り職人で[6]、生後7か月のとき、一家で父親の故郷・静岡県松崎町へ戻った[2]。その後、旧制豆陽中学[注 1]を2年で中退するまで土肥町(現在の伊豆市)で育った[10][12][13]。中学時代は水泳部で活動したが、2年生で退学した。これより父親の怒りを買ってしまい、暴力から逃れるため下田港から密航を企て青島へ渡った。その後釜山で弁当売りをし、帰国後には大阪で皿洗い、ペンキ塗り、旋盤工などさまざまな職に就く[2][14]。
戦後
1945年(昭和20年)の敗戦時、収容所に入れられ、独自に作った化粧品などを売って過ごした。中国からの復員の際に、妻帯者は早く帰国できるということで、同じ佐藤姓の女性と1946年(昭和21年)4月に偽装結婚し、同年6月に引き揚げ[2]。復員時に長崎県佐世保市から鉄道で広島駅へ達した際には、駅から四国が望まれ、原子爆弾の脅威を知る[16][17][20][21]。その後は多種多様な職業につく[22]。宮崎県宮崎市の妻の実家に身を寄せて宮崎交通に入社、バスの整備士として2年勤務[2]。1948年(昭和23年)、女児を身籠もっていた妻と離婚して鳥取県倉吉へ行く[2]。近くの三朝温泉へ行ったとき、戦争中に満蒙開拓団に関係していた人と知り合いになり、その紹介で県農業会(のちの農業協同組合)に入り[17][23]、組合長の秘書を務めながら農村工業課を新設[2]、サツマイモの澱粉からグルコースを採取する作業を指導する[23]。まもなく土地の資産家の娘と再婚[2]。
上京して映画界入り
1950年(昭和25年)、単身上京して福島県福島市を拠点に闇商売を始め、一時は大儲けするが結果的に挫折する[2]。同年12月[2]、27歳のとき[3]、東銀座を歩いていたところ松竹のプロデューサー小出孝にスカウトされ、松竹大船撮影所に演技研究生として入る[23]。スカウト時には、プロデューサーの「大船のスタジオにカメラテストに来てくれないか」との言葉に、「電車代と飯代を出してくれるなら」と答えたと述懐している[24]。またこの映画界入りの背景は偶然ではなく、東銀座でのスカウトの際、松竹の「あなたの推薦するスター募集」に、倉吉時代に出入りしていた写真館の主人が三國の写真を送っていたことを知る[2]。
1951年(昭和26年)、木下惠介の監督映画『善魔』に、レッドパージで出演取り止めとなった岡田英次の代役として松山善三の推薦により抜擢されデビュー[1]、役名の「三國連太郎」を芸名にする[2]。この演技により第2回ブルーリボン新人賞を受賞する。デビュー当時、松竹が紹介した経歴は、本名、生年月日、身長、体重を除いてほとんどが嘘だらけだったが、それもまた役者の象徴として平然と聞き流すのに対して、木下は俳優としての本質的な良さを認め、三國もその資質を活かすことに努める[2]。また、木下の勧めで3か月ほど俳優座に通った。
1952年(昭和27年)1月、東宝が稲垣浩の監督作品『戦国無頼』への出演を希望し松竹に出演許可を求めるが、三國がまだ演技研究生で松竹社員であることを理由に拒否される[2]。しかし東宝は松竹の間に正式契約がないことを確認して本人と交渉を進め、三國を巡る松竹・東宝の争奪戦がマスコミの話題となる[2]。三國が自ら『戦国無頼』のクランクインに参加したため、松竹は3月19日、正式に解雇する[2]。三國は出演ののち、東宝と年間4本の出演契約を結んだ[2]。これらの一件を通じて、義理人情を欠く「アプレ・スター」と叩かれた[2]。
この間に2度目の離婚。翌1953年(昭和28年)に3度目の結婚をしている[2]。
1954年(昭和29年)、稲垣監督『宮本武蔵』出演中に映画製作を再開した日活の『泥だらけの青春』に出演すると発表、東宝が折れ出演を果たす[2]。その直後、「五社協定違反者第1号」に指定される[2]。松竹大船撮影所の門扉に「犬・猫・三國、入るべからず」との看板が取り付けられたという[25]。
1955年(昭和30年)、日活と専属契約を結び、1956年(昭和31年)10月末、契約切れとともにフリーとなる[2]。
1959年(昭和34年)9月、他社出演の自由を条件に東映と専属契約、1965年(昭和40年)4月、東映を離れてフリーとなる[2]。
専属契約とフリーを繰り返す傍ら、1963年10月、映画会社「日本プロ」を設立[2]。第1作として『台風』を企画・監督するが、東映が「専属俳優に独立プロ活動は許さない」と反対し配給が叶わず公開中止となる[2]。その後1969年8月、プロダクション「APC」を設立[2]。テレビ映画やCM制作を行い、1972年3月には自主製作映画『岸辺なき河』の撮影に入るが未完となった[2]。
1984年(昭和59年)、紫綬褒章を受章。1986年(昭和61年)には映画『親鸞・白い道』[注 2]を製作・監督し、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞。その後は『釣りバカ日誌』シリーズ(1988年 - 2009年)の「鈴木社長」役で活躍。『釣りバカ日誌』シリーズで第33回日本アカデミー賞会長功労賞を受賞。
1993年(平成5年)、勲四等旭日小綬章を受章[26]。
受賞
- ブルーリボン賞
- 毎日映画コンクール
- キネマ旬報賞
- 1965年:男優賞『にっぽん泥棒物語』
- 1979年:助演男優賞『復讐するは我にあり』
- 1989年:主演男優賞『利休』
- 1991年:主演男優賞『息子』
- 報知映画賞
- 1979年:助演男優賞『復讐するは我にあり』
- 1989年:主演男優賞『利休』『釣りバカ日誌』
- 1984年:紫綬褒章
- 1987年:カンヌ国際映画祭 審査員賞『親鸞 白い道』
- 1989年:紀伊国屋演劇賞個人賞『ドレッサー』
- 日本アカデミー賞
- 1991年:日刊スポーツ映画大賞主演男優賞『息子』
- 日本映画批評家大賞
- 1991年:男優賞『息子』
- 2003年:ダイヤモンド大賞
- 1965年:ホワイトブロンズ賞 主演男優賞『飢餓海峡』
- 1992年:モンテカルロ・テレビ祭最優秀男優賞『冬の旅』
- 1993年:勲四等旭日小綬章
- 2007年:毎日芸術賞特別賞 『釣りバカ日誌』『北辰斜にさすところ』の演技で
- 2010年:山路ふみ子映画賞山路ふみ子文化財団特別賞


切腹(1962年) 釣りバカ日誌
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