承継
この追悼サイトは、 小野 蘭山(江戸時代の大本草学者) 「日本のリンネ」と称されるさまのために作成されました。

享年80歳 、誕生日 1729年9月13日、命日 1810年3月2日
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小野 蘭山(おの らんざん、享保14年8月21日1729年9月13日) - 文化7年1月27日1810年3月2日))は、江戸時代の大本草学。名は識博(もとひろ)、通称は喜内、は以文、は蘭山、朽匏子。しばしば「日本のリンネ」と称される京都出身。門弟に杉田玄白木村兼葭堂飯沼慾斎谷文晁桜田欽斎水谷豊文三谷公器狩谷棭斎吉田立仙山本盛備大正年間の総理大臣山本権兵衛の養曽祖父)

生涯
本姓は佐伯氏。名は職博(もとひろ)[1][2]。京都桜木町(上京区)で佐伯職茂(主殿大允従四位伊勢守)の次男として生まれる[3]

13歳の時から父の師であった松岡恕庵本草学を学ぶ[3]。非常に記憶力がよく一度聞いたことは一生忘れなかったという。ところが5年と経たず恕庵が死去、以後は独学で本草学を学ぶことになる。そんな中、蘭山は一つの壁に突き当たった。実はそれまでの本草学は中国から伝わった李時珍の著書『本草綱目』を元に作られたもので日本固有の動植物鉱物などに適した形をもっていなかった。その事から、蘭山は積極的に山や森に分け入り日本の本草学作りを志した

通称は喜内、は以文(いぶん)[3]。25歳で京都丸太町に私塾衆芳軒を開塾、多くの門人を教えた。蘭山が研究した本草学は広く知られる事になり日本中から生徒が集まり千人を越える人間が巣立って行ったと言われている。ただ、塾を去って郷里に戻った後も本草学を続けた者は10人に1人もいない、という(『水火魚禽考諸』)。しかし、郷里に戻った門人と蘭山との書簡が数多く残り、手紙で教えを請い続けた弟子もいたようだ。

天明8年1月30日1788年3月7日)、蘭山60歳の時、天明の大火が発生。私塾・衆芳軒も大火にやかれ蘭山も門人の吉田立仙の家に避難。この大火で門弟達は散り散りとなり、しばらくの暇ができた蘭山は、自身の研究をまとめる著作の執筆をして過ごした。

寛政11年(1799年)71歳の時、幕命により江戸に移り医学校教授方となる。享和元年(1801年) - 文化2年(1805年)にかけて、諸国をめぐり植物の採集。享和3年(1803年)75歳の時に研究をまとめた著書『本草綱目啓蒙』脱稿。本草1882種を書き表す大著で3年にかけて全48巻が刊行され、日本最大の本草学書になったこの著書はのちにシーボルトが手に入れ、蘭山を「日本のリンネ」と賞賛している[4])。

文化7年(1810年)1月27日死去。享年82。墓所は練馬区の迎接院。小野家の菩提寺である上京区の阿弥陀寺には墓はないものの、過去帖には記載されている。

没後100年に当たる明治42年(1909年従四位を贈位され、小石川植物園東京大学大学院理学系研究科附属植物園)で「小野蘭山先生百年記念展覧会」が催された。平成22年(2009年)の没後200年記念でも各地で催し物が開かれ、京都府立植物園には「小野蘭山顕頌碑」が建てられている。

栄典
エピソード
蘭山が残したものにの語源について述べたものがある。蛍は日本書紀の記述からすでに「蛍」、「保多留」などと書かれていて語源については諸説ある。貝原益軒は火が垂る(垂れる、流れる、こぼれ落ちる)から「火垂る」とし蘭山は星が垂るから「星垂る」としている。

主な著書
これまでに知られている蘭山の著作の殆どはマイクロフィルムないしスキャナーによるデジタル化処理済みで、インターネット上の国立国会図書館デジタルコレクション国文学研究資料館電子資料館「国書データベース」などで公開されている。制限なく全文が読める形での公開も多い。

卓越した観察力。門人を率いて実地調査に積極的に取り組んだ蘭山

身体虚弱を克服した蘭山は、71歳で江戸へ
寛政11年(1799)、71歳の蘭山は当時としては相当な高齢であるにもかかわらず、幕府の命により江戸の医学館に医官として招聘されました。身体虚弱な蘭山でしたが、本草学の研究成果を食養生法などの健康管理術として活用し、60歳の頃にはすっかり健康になったと伝えられています

実物の観察を重視し、野外採薬に積極的に赴いた
医学館では「実物をよく観察すること」の大切さを強調し、門人を率いては実地調査である採薬に積極的に赴きました。蘭山の本草学のすばらしさは文献研究以外にも採薬によって得られた生きた知見がふんだんに加えられているところにあります。

蘭山の功績が、日本の本草学の集大成『本草綱目啓蒙』へ
江戸での講義は『本草綱目啓蒙』48巻にまとめられ出版され、この書物はわが国の本草書として高く評価されました。日本産の動物、植物、鉱物を網羅し、その和名、方言が収録され、その後も多くの本草学者に活用されました。
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注:このサイトは、小野蘭山に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2026年7月11日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
1803年、75歳の時に著書「本草網目啓蒙」脱稿。 本草1882種を書き表す大書で3年かけて全48巻が刊行されました。  現代でも難行なのに当時にそれだけの大事業を敢行した日本最大の本草学者でした。   合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2026年7月11日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
1803年、75歳の時に著書「本草網目啓蒙」脱稿。 本草1882種を書き表す大書で3年かけて全48巻が刊行されました。  現代でも難行なのに当時にそれだけの大事業を敢行した日本最大の本草学者でした。   合掌