承継
墓地青山霊園 東京都港区南青山2丁目32–2 1種イ1号34,35側
戒名

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  • 沖 牙太郎(おき きばたろう)起業家。西南戦争を機に電信事業の必要性が増大し、33歳で銀座に日本初の通信機器メーカー「明工舎」(後の沖電沖電気創設者。 日本で初めて電気通信機器の製造・販売事業を興した。 広島の農家に生まれる。 20歳で明治維新を迎え、27歳で上京して電信技術に携わった。
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  • 気工業)を設立。同年、国産第1号となる電話機を製造した。日清・日露戦争の時代であり、 陸軍や海軍から電話線や電話機の受注を受 け経営が安定する。 1889年、明工舎を沖電機工場と改称。 1906年5月29日に58歳で他界。 現在、沖電気はJR東日本の券売機や、ローソンの小型ATMなど様々な機器を製造。

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生い立ち

  • 1848年の江戸末期に誕生した沖牙太郎氏は、広島県沼田郡新庄村(現在の広島市西区新庄町)で誕生しました。沖家は多くの人を扱う大農でしたが、将来は大工になると言っていたようです。手に職を付けている技術職の象徴として、大工に憧れていたのかもしれません。また、極めて負けず嫌いで、相撲の際は相手の肩先に食いついて離さなかったという記録もあるとか。事業家としての負けず嫌いな精神と、手に職を持った技術者への憧れが影響し明工舎を作り上げたのでしょう。
  • 1874年、時代は江戸から明治に移り、沖牙太郎氏は27歳で東京の新橋に上京しました。同郷の先輩である、原田隆造氏(工部省電信寮の修技科長)の元、書生として電信寮に通うことになります。電信寮には、電信機を製作する製機所があり、銀細工師(※2)として働いていた沖牙太郎氏は電信機の製造に惹かれていました。沖牙太郎氏の書生としての仕事ぶりや熱心な姿に周囲の推薦を受けることになり、そして沖牙太郎氏は製機所で働くようになったのです。製機所の責任者の一人、ルイス・シェーファーに認められ、2年4ヶ月という異例の速さで昇進した沖牙太郎氏は、旋盤を担当する技工の地位が与えられました。