承継
この追悼サイトは、 オードリー・ ヘプパーン(イギリスの女優・ファッション界のアイコン)さまのために作成されました。

享年63歳 、誕生日 1929年5月4日、命日 1993年1月20日
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オードリー・ヘプバーンAudrey Hepburn1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、イギリス人女優ヘップバーンとも表記される。ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる。アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインしており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしている。

イギリスで数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』で主役を演じ、1953年には『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得した。その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待っ』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品であるオンディーヌトニー賞 演劇主演女優賞を受賞している。さらにヘプバーンは死後にグラミー賞エミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。

70年代以降ヘプバーンはたまに映画に出演するだけで、後半生の多くの時間を国際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。ユニセフ親善大使として1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。1992年終わりにはアメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与された。この大統領自由勲章受勲一カ月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂癌のために63歳で死去した[7][

ヘプバーンは1952年撮影の『ローマの休日』で共演したグレゴリー・ペックとコラムニストに噂を書き立てられたが、傷つき怒ってこの噂を一蹴している[248][249]。ヘプバーンは「多かれ少なかれ女優は主演男優に好意を抱くものですし、その逆の場合もあるでしょう。演じられているキャラクターを好きになった経験がある人には理解できると思います。珍しいことではありません。ただ、それは映画や舞台の上以上には進展させてはならない感情で、少なくとも私自身は今後もそれを実行していくつもりです」と語っている[245]。後年、ヘプバーンは『ローマの休日』出演での最大の宝物はウィリアム・ワイラーとグレゴリー・ペックとの終生の友情だと語っている[

1970年12月22日、ヘプバーンはジュリー・アンドリュースが司会を務める『愛の世界』というユニセフの特別番組に当時住んでいたイタリアを代表して出演した[307]。これが晩年に人生を捧げることになるユニセフへの最初の貢献だった[307]

1987年10月、オランダ大使としてポルトガルにいた従兄弟にマカオで開かれる国際音楽祭の来賓として招待され、ユニセフのポルトガル支部へのスピーチを依頼された[308][309]。2分間のスピーチは全世界にテレビ放送され、ユニセフの活動に人々の目を向けさせることに成功した[309]。これがユニセフのための本格的な活動の始まりだった[310]。ヘプバーンはスピーチ後、ユニセフの職員と会って「もし私が必要とされるなら、ユニセフのために喜んで役に立ちたい」と自ら申し出た[311][312]

次にジュゼッペ・シノーポリ指揮で世界中の演奏家を集めたワールド・フィルハーモニック・オーケストラのチャリティコンサートが東京で行われるので、ヘプバーンは演奏前のスピーチをユニセフに依頼され、喜んで1987年12月に東京に向かった[313][311][314]

マカオと東京での成功後、各国のユニセフからの依頼が続々と舞い込み[315][309]、1988年3月9日にユニセフ親善大使の依頼を引き受けることとなった[316][317][318][注釈 16]。「私は全人生をこの仕事のためにリハーサルしてきて、ついに役を得たのよ」と言っている[319][320]

死去する4カ月前の1992年9月に、ヘプバーンはソマリアを訪問した[334][335]。当時のソマリアは、以前ヘプバーンが心を痛めたエチオピアやバングラデシュを上回るほどの悲惨な状況にあった。それでもなおヘプバーンは希望を捨ててはいなかった。「政治家たちは子供たちのことにはまったく無関心です。でもいずれの日にか人道支援の政治問題化ではなく、政治が人道化する日がやってくるでしょう」[336]

1992年、ユニセフでの活動をたたえてアメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュが、文民に与えられるアメリカ最高位の勲章である大統領自由勲章をヘプバーンに授与することとなった[337][338]。しかしすでにヘプバーンは授与式には参加出来ず、メダルはヘプバーンが亡くなった後に届けられた[337]。さらに映画芸術科学アカデミーが、人道活動への貢献をたたえてヘプバーンの死後にジーン・ハーショルト友愛賞を贈り、息子が代理として賞を受け取った[339]

ヘプバーンの女優としての業績とその人間性は死後も長く伝えられている。米国映画協会が選定した「最も偉大な女優50選」でヘプバーンは第3位になっている。ハリウッドから遠ざかった晩年においても、ヘプバーンは映画界で存在感を放っていた。1991年にはリンカーン・フィルム・ソサエティから表彰を受け、アカデミー授賞式では何度もプレゼンターを務めている。ヘプバーンが死後に受けた賞としては、1993年のジーン・ハーショルト友愛賞、グラミー賞、エミー賞などがある。

オードリー・ヘプバーンの人気映画作品
   1.ローマの休日     7.おしゃれ泥棒     13.戦争と平和
   2.シャレード      8.噂の二人       14.パリで一緒に
   3.暗くなるまで待って  9.いつも二人で     15.許されざる者
   4.マイ・フェア・レディ  10.尼僧物語     16.ロビンとマリアン
   5.ティファニーで朝食を  11.昼下がりの情事  17.緑の館
   6.麗しのサブリナ     12.パリの恋人    18.華麗なる相続人 
etc.

     Headshot portrait of Belgian-born actor Audrey Hepburn leaning on her hand in a red jacket with a poodle applique.

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(幼少期)

ヘプバーンはブリュッセルイクセルで生まれ、幼少期をベルギーイングランドで過ごした。オランダにも在住した経験があり、第二次世界大戦中にはドイツ軍が占領していたオランダアーネムに住んでいたこともあった。古い資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。これは、戦時中にドイツ軍占領下にあったオランダで、「オードリー」という名があまりにイギリス風であることを心配した母エラが、自らの証明書の1つに手を加えて(EllaをEddaとした)持たせた偽名である[6]。5歳ごろからバレエを初め、アムステルダムではソニア・ガスケル英語版)のもとでバレエを習い、1948年にはマリー・ランバートにバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験がある。