承継
この追悼サイトは、 岩谷 直治(岩谷産業創業者)さまのために作成されました。

享年102歳 、誕生日 1903年3月7日、命日 2005年7月19日
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岩谷 直治(いわたに なおじ、1903年3月7日 - 2005年7月19日)は、日本の実業家。 エネルギー商社、岩谷産業の創業者で名誉会長を務めた[1]。1985年に勲二等瑞宝章を授与された[1]

来歴・人物[編集]島根県安濃郡長久村(現・大田市)出身[1]、大田農業学校(現 島根県立大田高等学校)卒業。神戸市の運送会社で勤務した後、ガスの製造・販売を行う「岩谷直治商店」を1930年に創業。これが1945年に株式会社法人の岩谷産業に改組される[1]。それ以後40年間に渡り社長を務めた。長男は日本瓦斯創業者の岩谷徹郎、親戚に竹下登(第74代内閣総理大臣)、直系ではDAIGO石川佳純卓球選手)、がいる。

1953年家庭用プロパンガスを日本で初めて市販。また1969年にはガスホースを使わないカセットボンベ式卓上型ガスコンロをやはり日本初の市販化。「プロパンガスの父」と慕われた。またプロパンガス以外の住機器、食品事業などにも取り組み、岩谷を生活総合産業企業へと一代で築き上げた。またNHK交響楽団に協賛したり、岩谷直治記念財団を立ち上げ、文化事業にも率先的に取り組んだ。エネルギー分野を中心に、優れた研究・開発を行った者を表彰する「岩谷直治記念賞」も設けられている。

2005年7月19日、老衰により102歳で永眠した。

2006年9月18日に一周忌記念として、大田市でNHK交響楽団によるコンサートが執り行われ、その模様が日本海テレビによって放映された。

著書[編集]
イワタニと水素の出会い
捨てられていた水素に着目
水素との出会いは、1941年。工業生産の過程で副次的に発生しながらも、空気中に捨てられていた水素に着目し、水素ガスの販売を始めたことがきっかけでした。当時、水素は油脂メーカーなどの自社消費以外では、溶接やアドバルーン、気象観測用などに使われるに過ぎず、その多くが空気中に捨てられていました。しかし、創業者 岩谷直治は水素の秘められた可能性を誰よりも先に見出し、新たな時代に役立つものとして育てるという信念のもと、取り扱いを開始。現在に至るまで80年以上の間、水素の製造・供給・研究開発を行ってきました。

一人一人が激しい流れに対応する姿勢を身につけて、風雪に耐えて立つ大樹のような抵抗力を育て上げ、波濤を乗り越えて進む旺盛な意欲をたぎらせることだ 
               「常に新たな視点に立って、私も〝先憂後楽〟を座右の銘とし社員の皆さんとともに激動の時代を勇気をもって乗り越えていきたいと考えています。」 ダーウィンの「進化論」から適者生存、優者生存、優勝劣敗の話を聞き、「世の中に必要なものは栄える」が心に強く残っていた。「将来必ず酸素時代が来るということで始めたのですが、ちゃんと酸素時代がきましたし、炭素ガスにしてもしかりです」。さらに「いま、つくっている液体水素は宇宙開発に使い、成田空港の近くには大規模な液体水素工場をつくろうと思います。国際空港は、液体水素が燃料になってきましょう、そういう大きな夢をもっています」という言葉にみられるように夢を描き、自分の言葉にして発信し、常に志=ビジョンを打ち上げた人である。「相当の犠牲も払い、苦戦もしたが、もしプロパンをやっていなかったら、会社はここまでこれなかったでしょう。ただの金儲けのためでなく、大衆が要求しているもの、世の中に必要なものを売り、買う人に利益を与えたから会社が伸びたと私は確信しています」 このように『買う人に利益を与えたら会社は必ず伸びる』と岩谷は常に語り続けた。                                              180px-Hommachi_Garden_City.jpg 大阪本社外観  大阪市中央区本町3-6-4 本町ガーデンシテイ
※注:このサイトは、岩谷直治に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2023年9月22日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
1941年に当時捨てられていた水素に着目し、現在に至るまで80年以上の間、水素の製造・供給・研究開発を行ってきた岩谷産業の創業者に敬意を表し、多大な貢献に感謝します。     合掌

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