この追悼サイトは、 大島 みち子 「愛と死をみつめて」ある純愛の記録のヒロイン(作者)さまのために作成されました。
享年21歳 、誕生日 1942年2月3日、命日 1963年8月7日
※ 大島 みち子さんへのメッセージ投稿や、写真アルバムの共有はサインインで可能になります。
日本中を感動の渦に巻き込んだベストセラー『愛と死をみつめて』の著者。映画、テレビ、レコードと相次いでマスコミの話題を独占し、全国に大反響を巻き起こした。1942年2月、兵庫県西脇市に生まれ、県立西脇高校二年在学中に発病。卒業までに入退院を繰り返す。1960年の夏、大阪大学附属病院に入院中に河野実と初めて出会う。1962年、同志社大学入学後の夏、再発。大阪大学附属病院に再入院するが、一度も退院することなく、1963年8月7日、長く厳しかった闘病の青春を終え、その若く美しい生命を閉じた(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
『若きいのちの日記 愛と死の記録』より
『愛と死をみつめて』(あいとしをみつめて)は、大学生河野實(こうの まこと=マコ、1941年8月8日 - )と、軟骨肉腫に冒され21年の生涯を閉じた大島みち子(おおしま みちこ=ミコ、1942年2月3日 - 1963年8月7日)との、3年間に及ぶ文通を書籍化した書簡集である。1963年(昭和38年)12月25日に大和書房より刊行され、1年間で130万部を売り上げる大ヒットを記録し、1964年の年間ベストセラーの総合1位を記録した[1][2]。ラジオドラマ・テレビドラマ・レコード・映画化された。
『愛と死をみつめて』の出版20日後には大島の病床日記『若きいのちの日記』も刊行されている[3]。
兵庫県立西脇高等学校に通うミコ(大島みち子)は、顔に軟骨肉腫ができる難病に冒されていた。阪大病院に入院した際、同じ病棟で長野県出身の浪人生マコ(河野実)と出会い、互いに18歳の阪神タイガース・ファン同士で意気投合し、文通を始める。
その後、ミコが京都の同志社大学、マコが東京の中央大学へ進学してからも文通は途切れず、ミコの病気が再発して再入院した後も、マコは夏休みに大阪駅ホームのビール売りのアルバイトを続けてミコを励ます。夏休みが終わって、東京に戻ったマコとの文通が闘病生活の大きな支えになっていく。マコはその後もアルバイトをして長距離電話で励ましたり、旅費を工面して阪大病院を訪れるなどし、2人の愛は深まるばかり。
しかしミコは手術で顔の半分を失い、さらに病気は悪化していく。そして、マコの22歳の誕生日の前日に、自らのメモリアルデーを刻んで、この世を去って逝く。
唄:青山 和子・・・「愛と死をみつめて」
「マコ、元気になれず、ゴメンネ」。 同じく原書の河野による注記によると、1962.07.19(マコが大阪に着いた翌日。この日からみこは再び個室に入る)、二人きりになったときのこと。
①二人は「思い切り泣いた」。
②みこが「マコ、元気になれず、ゴメンネ」と詫び、マコは「泣いて答える」しかなかった。
この②がのちに、青山和子の歌(1964年)の三番で、「マコ、元気になれずにゴメンネ」という歌詞となって使われた。一番は「甘えてばかりでゴメンネ」、二番は「わがまま言ってゴメンネ」だ。

ミコ(大島)が入院生活を送った阪大病院(中ノ島)
![特集 愛と死をみつめて ] - Mr.XRAY](https://msp.c.yimg.jp/images/v2/tpvPBYOX1wpNVI1UoNSgEkEyAE0N7-Mzh3_-2oDr-4O6WTQa5TW1H8EKRGPdbsbSLM4WY0jix3Xrc6wNGEptD1cVSIwv-f-3at2d9c1az4XBMoPYG-HUNRZF1x8CDzGsy-Ij8CrYkQpp5pB2_lheaIH_QYZecdTV2ByUR4HWSc58sZv5YCy3kfPXOGaVQYTdS7XDDWdTc_HU7gdv62f5jVGE7ys9NhRxYMFHLr2BUoa4wEU3khDxQdjZ02HBjV1mEoPDUV6r8BzDtrQk3t4y7Q==/Final_03.jpg)
注:このサイトは、大島みち子に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年21歳 、誕生日 1942年2月3日、命日 1963年8月7日
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日本中を感動の渦に巻き込んだベストセラー『愛と死をみつめて』の著者。映画、テレビ、レコードと相次いでマスコミの話題を独占し、全国に大反響を巻き起こした。1942年2月、兵庫県西脇市に生まれ、県立西脇高校二年在学中に発病。卒業までに入退院を繰り返す。1960年の夏、大阪大学附属病院に入院中に河野実と初めて出会う。1962年、同志社大学入学後の夏、再発。大阪大学附属病院に再入院するが、一度も退院することなく、1963年8月7日、長く厳しかった闘病の青春を終え、その若く美しい生命を閉じた(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
『若きいのちの日記 愛と死の記録』より
『愛と死をみつめて』(あいとしをみつめて)は、大学生河野實(こうの まこと=マコ、1941年8月8日 - )と、軟骨肉腫に冒され21年の生涯を閉じた大島みち子(おおしま みちこ=ミコ、1942年2月3日 - 1963年8月7日)との、3年間に及ぶ文通を書籍化した書簡集である。1963年(昭和38年)12月25日に大和書房より刊行され、1年間で130万部を売り上げる大ヒットを記録し、1964年の年間ベストセラーの総合1位を記録した[1][2]。ラジオドラマ・テレビドラマ・レコード・映画化された。
『愛と死をみつめて』の出版20日後には大島の病床日記『若きいのちの日記』も刊行されている[3]。
兵庫県立西脇高等学校に通うミコ(大島みち子)は、顔に軟骨肉腫ができる難病に冒されていた。阪大病院に入院した際、同じ病棟で長野県出身の浪人生マコ(河野実)と出会い、互いに18歳の阪神タイガース・ファン同士で意気投合し、文通を始める。
その後、ミコが京都の同志社大学、マコが東京の中央大学へ進学してからも文通は途切れず、ミコの病気が再発して再入院した後も、マコは夏休みに大阪駅ホームのビール売りのアルバイトを続けてミコを励ます。夏休みが終わって、東京に戻ったマコとの文通が闘病生活の大きな支えになっていく。マコはその後もアルバイトをして長距離電話で励ましたり、旅費を工面して阪大病院を訪れるなどし、2人の愛は深まるばかり。
しかしミコは手術で顔の半分を失い、さらに病気は悪化していく。そして、マコの22歳の誕生日の前日に、自らのメモリアルデーを刻んで、この世を去って逝く。
唄:青山 和子・・・「愛と死をみつめて」
「マコ、元気になれず、ゴメンネ」。 同じく原書の河野による注記によると、1962.07.19(マコが大阪に着いた翌日。この日からみこは再び個室に入る)、二人きりになったときのこと。
①二人は「思い切り泣いた」。
②みこが「マコ、元気になれず、ゴメンネ」と詫び、マコは「泣いて答える」しかなかった。
この②がのちに、青山和子の歌(1964年)の三番で、「マコ、元気になれずにゴメンネ」という歌詞となって使われた。一番は「甘えてばかりでゴメンネ」、二番は「わがまま言ってゴメンネ」だ。

ミコ(大島)が入院生活を送った阪大病院(中ノ島)
![特集 愛と死をみつめて ] - Mr.XRAY](https://msp.c.yimg.jp/images/v2/tpvPBYOX1wpNVI1UoNSgEkEyAE0N7-Mzh3_-2oDr-4O6WTQa5TW1H8EKRGPdbsbSLM4WY0jix3Xrc6wNGEptD1cVSIwv-f-3at2d9c1az4XBMoPYG-HUNRZF1x8CDzGsy-Ij8CrYkQpp5pB2_lheaIH_QYZecdTV2ByUR4HWSc58sZv5YCy3kfPXOGaVQYTdS7XDDWdTc_HU7gdv62f5jVGE7ys9NhRxYMFHLr2BUoa4wEU3khDxQdjZ02HBjV1mEoPDUV6r8BzDtrQk3t4y7Q==/Final_03.jpg)
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