この追悼サイトは、 竹村 健一 (ジャーナリスト、政治評論家)さまのために作成されました。
享年89歳 、誕生日 1930年4月7日、命日 2019年7月8日
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竹村 健一(たけむら けんいち、1930年〈昭和5年〉4月7日[1] - 2019年〈令和元年〉7月8日)は、日本のジャーナリスト、政治評論家[2]。1989年第5回『正論』大賞受賞[3][1]。
1955年から英文毎日の記者を経て、1963年に新日鐵グループの山陽特殊製鋼へ入社し調査部長となる[1]。しかし、1年後に山陽特殊製鋼を退社し[4]、以後は追手門学院大学英文科助教授[1]、拓殖大学客員教授などを経て、マーシャル・マクルーハンのメディア論の紹介で注目されて文筆活動を始める。並行してテレビ・ラジオにも出演[要出典]。
1980年(昭和55年)頃、講演やテレビ番組などで「仕事ができない奴=資料を持ち過ぎの奴」との持論を展開し、自身は1冊の手帳に情報を集約して使っていることを紹介した[要出典]。自らの監修によりオリジナルの手帳「これだけ手帳」を発刊し、その後30年にわたって発行され続けたが、2012年度版をもって発行を終了した。
1982年(昭和57年)9月、同年夏に出した『もっと売れる商品を創りなさい』が月刊誌『アクロス』同年2月号の記事から盗用していることが発覚。記者会見で盗用の事実を認めて謝罪し、回収することになった。全文コピーが7ヶ所で87行、文意盗用が10ヶ所で67行というもの[5][6][7][8]。
1985年(昭和60年)より、ニューヨークマンハッタンのモット・ストリートとプリンス・ストリートの交差点付近にあるビルの壁面に、竹村の肖像壁画が描かれている[9][10]。アデランスのCM撮影用に描かれたものである。
先述の「これだけ手帳」発売終了以後、2013年(平成25年)11月17日にニッポン放送開局60周年記念番組「NEXT STAGEへの提言」に出演[11]。それ以降メディア出演や著書発表などの活動を行うことはなかった。
2019年(令和元年)7月8日(月曜日)午後7時38分、多臓器不全のため、89歳で死去[12][13]。
享年89歳 、誕生日 1930年4月7日、命日 2019年7月8日
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竹村 健一(たけむら けんいち、1930年〈昭和5年〉4月7日[1] - 2019年〈令和元年〉7月8日)は、日本のジャーナリスト、政治評論家[2]。1989年第5回『正論』大賞受賞[3][1]。
来歴
大阪府大阪市東成区(現:生野区)生まれ。旧制大阪府立生野中学校の1年生の時に、父の実家のある兵庫県朝来郡和田山町(現:朝来市)に引っ越す。旧制兵庫県立生野中学校に転校。卒業後、旧制姫路高等学校文科甲類(現:神戸大学文学部)に入学するが、学制改革により翌年新制京都大学に編入。アメリカ・フルブライト財団主催のフルブライト奨学金制度の第1号として、アメリカ合衆国のシラキュース大学、イェール大学、ソルボンヌ大学(旧:パリ大学)で学ぶ[1]。シラキュース大学大学院新聞科修了[1]。1955年から英文毎日の記者を経て、1963年に新日鐵グループの山陽特殊製鋼へ入社し調査部長となる[1]。しかし、1年後に山陽特殊製鋼を退社し[4]、以後は追手門学院大学英文科助教授[1]、拓殖大学客員教授などを経て、マーシャル・マクルーハンのメディア論の紹介で注目されて文筆活動を始める。並行してテレビ・ラジオにも出演[要出典]。
1980年(昭和55年)頃、講演やテレビ番組などで「仕事ができない奴=資料を持ち過ぎの奴」との持論を展開し、自身は1冊の手帳に情報を集約して使っていることを紹介した[要出典]。自らの監修によりオリジナルの手帳「これだけ手帳」を発刊し、その後30年にわたって発行され続けたが、2012年度版をもって発行を終了した。
1982年(昭和57年)9月、同年夏に出した『もっと売れる商品を創りなさい』が月刊誌『アクロス』同年2月号の記事から盗用していることが発覚。記者会見で盗用の事実を認めて謝罪し、回収することになった。全文コピーが7ヶ所で87行、文意盗用が10ヶ所で67行というもの[5][6][7][8]。
1985年(昭和60年)より、ニューヨークマンハッタンのモット・ストリートとプリンス・ストリートの交差点付近にあるビルの壁面に、竹村の肖像壁画が描かれている[9][10]。アデランスのCM撮影用に描かれたものである。
先述の「これだけ手帳」発売終了以後、2013年(平成25年)11月17日にニッポン放送開局60周年記念番組「NEXT STAGEへの提言」に出演[11]。それ以降メディア出演や著書発表などの活動を行うことはなかった。
2019年(令和元年)7月8日(月曜日)午後7時38分、多臓器不全のため、89歳で死去[12][13]。
思想・論調
- 論調は基本的に保守的・親米的で、ハイテク、情報産業を重視する傾向が強い。リゾートとリサーチの「二つのR」が日本の未来を決する、と繰り返し強調。原子力発電の旗振り役もしている。友人・知人にも保守派の論客が多く、日本共産党や公明党とは主張が異なるものの、政党傾向や人物に偏らず、良いと思えるところは率直に評価すると自認する[14]。
- 竹村は著述業を通じて精力的にマーシャル・マクルーハンの思想を紹介した[15]。
人物
- 執筆スタイルは、口述筆記で喋ったことをテープに録音してそれを原稿起こししたり、新聞の切り抜き記事を編集者にリライトさせると言われており、1981年には36冊を出版するという量産ぶりで、1冊あたり最低3万部を売っていた[16]。
- 広い見識を持ち、テレビなどでも度々『英国エコノミスト』、『フィナンシャル・タイムズ』など、日本の新聞では紹介されにくい紙面からの情報も幅広く紹介する。自身のブログでは、日本のマスメディアに出てこない重要なニュースや記事を定期的に発表していた。
- 趣味はテニス、麻雀、スキー、スキューバダイビングなど[1]。スキーは57歳、スキューバは58歳で始めるという好奇心の強さと行動力を見せた。スキーは、ニュージーランドでたまたま居合わせた三浦雄一郎と意気投合して、そのままスキー場に直行したという逸話も残る[17]。また、実業家として太陽企画出版・善光寺温泉ホテル(現在は廃業)を経営[1]。2006年からは『AICJ中学校・高等学校』を運営する学校法人AICJ鴎州学園の理事長も務め、その母体である鴎州コーポレーションの取締役相談役も務めている。
- パイプを銜えた独特な風貌、「大体やね」「ブッシュさんはね」(日本国外の政治家を敬称入りで呼ぶ事例は日本人では稀)など、独特の口調や語の強調による特徴的かつ辛辣なトークによる評論を行う。この言葉が生まれたきっかけはTBSラジオ『ミッドナイトプレスクラブ』で外国人特派員らと議論を交わした時に出てきたとしている[18]。このため物真似芸として、タモリが芸能活動初期の持ちネタとしており、「だいたいやねぇ」という口癖を使用した[19]。本人がバラエティ番組に出演することもあった。
- 2000年、週刊誌に官房機密費を受け取った政治評論家の1人だと報道された[20]。
- 日本全国均一の航空運賃の発案者である。[要出典]
メディア出演
テレビ番組
- 竹村健一の世相講談(日本テレビ、1978年4月 - 1985年3月[注 1])司会
- 竹村健一の世相を斬る(フジテレビ、1979年10月 - 1992年3月)司会
- 世界おもしろネットワーク(テレビ東京、1981年10月 - 1982年2月)レギュラーゲスト
- 経済ホットチャンネル(テレビ東京、1985年10月 - 1987年3月)
- 竹村健一の食卓外交(朝日放送・テレビ朝日、1986年10月 - 1987年6月)司会
- 報道2001(フジテレビ、1992年4月 - 2008年3月)コメンテーター[22]
ラジオ番組
- 竹村健一のミッドナイトプレスクラブ(TBSラジオ、1974年10月 - 1980年10月)
- 竹村健一のウイークエンド・レポート(TBSラジオ、1977年10月8日 - 1978年4月1日)
- 竹村健一 パイプ片手に(TBSラジオ、1993年4月 - 1997年3月)
- 竹村健一のずばりジャーナル(ニッポン放送、1978年4月 - 2006年3月31日)
- 竹村健一の土曜エキサイト論争(ラジオ関東)
- 竹村健一のプレス&ピープル(文化放送)
- 世相ホットライン ハイ!竹村健一です(文化放送、1982年4月 - 2010年4月4日)
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