承継
ちらは 片岡千恵蔵さんの追悼サイトです。心より哀悼の意を表します

本名:植木 正義(うえき まさよし)
戒名:圓優院釋尼春慧
墓地蓮華寺(マップ)〒606-0065 京都府京都市左京区上高野八幡町1

※片岡千恵蔵御大と伊藤大輔監督は同じ墓地内にあります

戦前・戦後の長期にわたって活躍した時代劇スターで、同時代の時代劇スターである阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた[1](これに月形龍之介を含めて「七剣聖」と呼ぶ場合もある)。出演作品は300本を超える。戦前は片岡千恵蔵プロダクションを設立し、稲垣浩、伊丹万作の両監督とコンビを組んで傑作時代劇を多く生み出した。戦後は東映の重役スターとなり、亡くなるまで第一線のスターで在り続けた。終戦直後のGHQ占領時代には、金田一耕助や多羅尾伴内などを演じ現代劇でも人気を得た。当たり役に『いれずみ判官』の遠山金四郎など。


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片岡千恵蔵 - Wikipedia

※ 千恵蔵は、武士や任侠の人気役から、心理描写や風刺の効いた役までこなしました。同時に実業家としても資産を残しました。 →「想いで」セクションのエピソードで紹介


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軌跡

生い立ち

群馬県新田郡藪塚本町(現・太田市)に生まれ、幼い頃に母親を亡くした。父親は東京市水道局に勤務しており、やがて父親の住む麻布区箪笥町に移り住む。麻布小学校に入学し、演劇好きの父の影響で芝居に熱中するようになる。9歳のとき、十一代目片岡仁左衛門が主宰する「片岡少年劇場」に入門。片岡十八郎の名で、真砂座の『忠臣蔵』で初舞台を踏みました。菅原伝授手習鑑車引』の松王丸が師匠の代表作となった。少年劇場の解散後、仁左衛門の直弟子となり、片を名乗る。

映画スターとして

大映は戦時中の日本映画会社の統合に伴い、社名を「大映」に変更した。このとき大映に入社した千恵蔵は、阪東妻三郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門とともに「時代劇四天王」と称された。大映の初作品となった「維新の極」、その2年後の「掟破りの神風はこわれた」で歌右衛門と共演した。翌年には松田定次監督の「七つの顔」で藤村大蔵を演じ、この役で一躍有名になり、続編が何本か作られるようになった。1947年、社長の永田雅一と揉めて大映を退社、東横映画社に移籍し、『三本指の男』や初の潜入捜査官シリーズ『日本Gメン』などに出演した。
激怒の言葉:「わしは何も好き好んで、こんな荒唐無稽の映画に出ているのではない。幸い興行的に当たっているので、大映の経営上のプラスになると思ってやっているのに社長の地位にあるものが幕間のつなぎの映画とは何事だ。もう伴内ものは絶対に撮らない。大映との契約が切れたら再契約しない。」
報告

資産額は数十億とも数百億とも

墓マイラー趣味クラブさんが2023年2月25日に投稿
東映の取締役を務めながら名古屋市中区錦3丁目に3階建ての飲食ビル「千恵蔵ビル」を建て、次男の孝臣にその経営を任せた。20年間は京都で妻と別居し、その後名古屋に住んだ。晩年の20年間は、かつて料亭を経営していた女性に世話になった。千恵蔵はマンションやガソリンスタンド、小牧ドライブイン株式会社の社長、蕎麦屋を経営していた
若い頃から、名古屋、伊豆、信州に土地を買い、他にマンション経営や、ガソリンスタンド、そば屋などを所有し、資産額は数十億とも数百億ともいわれ、日本映画界きっての資産家として知られた。