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この追悼サイトは、 田中 角栄(大政治家、「日本列島改造論」を計画・実行した)さまのために作成されました。

享年75歳 、誕生日 1918年5月4日、命日 1993年12月16日
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田中 角栄(たなか かくえい[注釈 1]旧字体:田中 角榮、1918年大正7年〉5月4日 - 1993年平成5年〉12月16日)は、日本政治家実業家建築士。号は越山[2]

衆議院議員(16期)、郵政大臣第12代)、大蔵大臣(第676869代)、通商産業大臣第31代)、自由民主党総裁(第6代)、内閣総理大臣(第6465代)を歴任した。

自民党内最大派閥の田中派を率い日本列島改造論を計画・実行し、他にも様々な政策を成し遂げたことでも有名であり、今太閤影の総理など呼ばれ多大な影響力をもった政治家として知られる。

概説[編集]
自民党最大派閥の田中派(木曜クラブ)を率い、巧みな官僚操縦術を見せる田中は、党人政治家でありながら官僚政治家の特長も併せ持った稀な存在だった。次世代のリーダーの一人として自民党総裁の座を狙っていたころは、その膨大かつ明晰な知識と、徹底してやり抜く実行力から「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれていた[3][4]。大正生まれ初の内閣総理大臣であり、在任中には日中国交正常化日中記者交換協定金大中事件、第一次オイルショックなどの政治課題に対応した。政権争奪時に掲げた日本列島改造論による日本列島改造ブームは一世を風靡したが、その政策はインフレーションを招いてこれを狂乱物価と批判していた政敵の福田赳夫を蔵相に抜擢して日本は安定成長期に入った。その後の田中金脈問題によって首相を辞職、さらにアメリカ合衆国航空機製造大手ロッキード社の全日本空輸への航空機売込みに絡んだ贈収賄事件、いわゆる「ロッキード事件」で逮捕・収監され、自民党を離党した。

首相退任後やロッキード事件による逮捕後も田中派を通じて政界に隠然たる影響力を保ち続けたキングメーカーだったことから、マスコミからは「(目白の)闇将軍」の異名を取った。1972年(昭和47年)に総理大臣になると、高等教育を受けていないにもかかわらず[注釈 2]努力一筋で首相にまで上り詰めた経歴から「今太閤」、「庶民宰相」、「豊臣秀吉」とも呼ばれた。また、天下人の太閤秀吉になぞらえ子飼いの武将の「七本槍」を彷彿とさせることから、中堅幹部は「七奉行」とマスコミに表現された。

道路法の全面改正や、道路港湾空港などの整備を行う各々の特別会計法など、衆議院議員として33件の議員立法を成立させ[5]、戦後の日本の社会基盤整備に正負両面にわたる大きな影響を与えた。また、社会基盤整備を直接担当する建設省運輸省、大臣として着任していた通商産業省郵政省などに強い影響力を持ち、政治家による官僚統制の象徴、族議員の嚆矢となった。

1972年8月7日の駐日アメリカ大使から本国への機密の報告書には「田中の粘り強さと決断力の源は、自らの力でのし上がってきた、その経歴にあると思われる。彼の大胆さと手段を問わないやり方は終戦直後の混乱からトップに登り詰めたことを反映している」とある。通産大臣時代に担当した戦後初の日米貿易摩擦とされる日米繊維交渉ではアメリカに対して粘り強く交渉し、貿易戦争の瀬戸際になるまで妥協しなかったこともあった[6]

上京[編集]
1934年(昭和9年)3月、農村工業論を唱えて新潟県柏崎に工場建設していた理化学研究所大河内正敏が「(自身を)書生に採用する」という話が持ち込まれ、それを機に上京する[19][20]だが東京に着いてみると書生の話は通っておらず、やむなく仮寓先としていた群馬に本社がある土建会社井上工業の東京支店に住み込みで働きながら、東京神田の中央工学校夜間部土木科に通った[21][20]

夜間部在学中に、保険業界専門誌『保険評論』を発行する小山哲四郎書生になったり、輸入専門の貿易商「高砂商会」の配送員といった職にも就いたりした

中央工学校卒業後

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1936年(昭和11年)3月、中央工学校夜間部土木科を卒業し[13]、建築事務所に勤めるようになるが、事務所の主催者が軍に徴集されたため、1937年(昭和12年)春に独立して「共栄建築事務所」を設立する[24]。これに前後して、日比谷のビルで大河内正敏と偶然エレベータに乗り合わせたことから知遇を得て、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けた[24]。このころ、仕事のかたわら実業学校である錦城商業学校(1936年商業4年修了)[25] にも籍を置き、商事実務(コーポレート・ファイナンス)を学ぶ。

1938年(昭和13年)、徴兵適齢のため受けた徴兵検査で甲種合格となり、現役たる騎兵として陸軍騎兵第24連隊への入営が通知される[26]1939年(昭和14年)に入営し、4月より満州国富錦で兵役に就く[27]。軍隊時に早稲田大学の「建築に関する専門講義録」を入手し勉強に励む[28]。入営当初は内務班での私的制裁を古兵から受けたが、夏に勃発したノモンハン事件に古兵が動員されたことに加え、部隊内の事務や能筆といった技能により、上官に一目置かれるようになった[29]1940年(昭和15年)3月、入営から1年で陸軍騎兵上等兵となる。しかし、同年11月にクルップ性肺炎を発症、翌年2月内地に送還される。治癒後の1941年(昭和16年)10月に除隊、翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設し、1942年(昭和17年)3月に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚した[30]。家主は土木建築業者で、結婚によりその事業も受け継いだ。同年11月に長男正法(1947年9月、4歳で死亡)が、1944年(昭和19年)1月に長女眞紀子がそれぞれ誕生している。

田中土建工業の設立

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1943年(昭和18年)12月に、「共栄建築事務所」を改組して田中土建工業を設立した。

仕事で訪れた理化学研究所のエレベーターで偶然大河内正敏と乗り合わせた。そして、彼は角栄が自分の家で1934年の上京時に門前払いをくったことを知り、柏崎とのつながりに親しみを覚えたことで、理研の仕事が角栄の会社に舞い込むようになった[20]理研コンツェルンとの関係も復活し[31]、理化学興業(ピストンリング製造、現:リケン)などから仕事を請け負う。田中土建工業は年間施工実績で全国50位入りするまでになった

戦後の政界入り[編集]
Tanaka_kakuei.jpg長岡鉄道社長時代の田中200px-Kakuei_Tanaka_PM.jpg「泥沼の政界決算白書――決算委員誌上討論會」(『文藝春秋』32巻16号、文藝春秋新社1954年10月)に掲載された肖像写真

日本進歩党

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1945年11月に戦争中より田中土建工業の顧問だった進歩党代議士の大麻唯男からの要請で献金を行ったことをきっかけに、大麻の依頼により1946年4月の第22回衆議院総選挙に進歩党公認で、郷里の新潟2区(当時は大選挙区制でのちの中選挙区制での区とは異なる)から立候補する[35][注釈 4]。田中は1月から地元に乗り込んで選挙運動を行ったが、有力者に与えた選挙資金を流用されたり、見込んでいた支援者が立候補するといった誤算もあり、候補37人中11位(定数は8)で落選した[37]。この選挙の時に、「三国峠を崩せば新潟に雪は降らなくなり、崩した土砂で日本海を埋めたら、佐渡まで陸続きになる」という演説をした[37]

自由民主党結党後・幹部や閣僚歴任[編集]
1955年11月の保守合同で自由党は日本民主党と共に自由民主党を結党し、田中も参画する。

総理大臣[編集]
200px-Kakuei_Tanaka_197207.jpg内閣総理大臣に就任したころの肖像写真
  • 1972年(昭和47年)
    • 9月 - 日米首脳会談後に中華人民共和国を訪問。北京周恩来首相や毛沢東共産党主席と会談。9月29日、両国の共同声明により日中国交正常化[58] が実現し、日華平和条約の終了を確認。この際、田中は周恩来から一枚の色紙を渡され喜んでいる写真が新聞に掲載された。色紙の言葉は「言必信行必果」と書かれてあった。しかし、この言葉は論語から引用したもので、この言葉のあとに「硜硜然小人哉」と続く。この記事を見て安岡正篤は、この言葉の真の意味も知らないで喜んでいる田中を見て、田中の教養のなさと中華人民共和国のしたたかさを周りの人にと指摘したといわれる。諸橋轍次『中国古典名言事典』(講談社刊)では、「その言葉は必ず真実であり、やるべきことは必ずやりとげる。それは士として持つべき資質だ。しかしながら、もしそれだけの人だとしたら、人間として小さい」と訳されている[59][60][61][62]。同日、中華民国が対日国交断絶を発表[63]
外交[編集]
200px-Tanaka_and_Nixon_1973_%28copy%29.pngホワイトハウスリチャード・ニクソンと会談(1973年)200px-President_Gerald_R._Ford_Meeting_with_Prime_Minister_Kakuei_Tanaka_at_Akasaka_Palace_in_Tokyo%2C_Japan_-_NARA_-_45644155.jpg迎賓館赤坂離宮で、ジェラルド・R・フォード大統領と会談(1974年)田中内閣の外交業績としてまず挙げられるのは、日中国交正常化である。背景として、1972年1月にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を訪問したこと、および三木武夫が総裁選における田中支持の条件として、日中国交正常化を条件としたことがある(詳しくは日中国交正常化を参照)。田中がロッキード事件で失脚した後も、1978年10月の鄧小平の初訪日時には、中国側から日中国交正常化の立役者として田中や大平元外相、さらにそれまで歴史的に復交の基礎作りをした様々な貢献者の遺族にも会いたいとの希望が出され[124]、この結果、鄧小平は田中の私邸を訪問することとなった。鄧小平がこのとき田中を訪問した理由については、「最初に井戸を掘った人を恩人として中国では大切にするのだ」という説明が、日本側においてはしばしばなされる[注釈 8]。その後、田中も晩年の1992年に再訪中している。

ローカルプレミアム】田中角栄ブームで郷里・柏崎の記念館が沸い ... 田中角栄記念館 新潟県柏崎市西山町坂田717-4
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軌跡

(生誕~少年時代)

1918年5月4日新潟県刈羽郡二田村大字坂田(後の同郡西山町、現:柏崎市)に父・田中角次(1886〜1964)、母・フメ(1891〜1978)の二男として生まれる。ただし長兄は早逝しており、実質的には7人の兄弟姉妹で唯一の男児(他に姉2人と妹4人)だった[7]。田中家は農家だが父は牛馬商、祖父・田中捨吉(田中角右衞門の子)は農業の傍ら宮大工を業としていた。母は寝る間も惜しんで働き、「おばあさん子」だったという[8]。幼少年時代に父がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し、家産が傾き、極貧下の生活を余儀なくされる。幼いころ、ジフテリアに罹患した後遺症で吃音症を患い[9][注釈 3]浪花節を練習して矯正した。

1933年昭和8年)、二田尋常高等小学校[10](現:柏崎市立二田小学校)卒業。また田中自身も、大蔵大臣就任時の挨拶に見られるように「高小卒業」を一つのアピールにしていたことがある。小学校時代から田中は勉学に優れ、ずっと級長をしていたという[11]。高等小学校の卒業式では答辞を読んだ[12]