承継
この追悼サイトは、 谷崎 潤一郎(小説家) 代表作「痴人の愛」「春琴抄」「細雪」などさまのために作成されました。

享年79歳 、誕生日 1886年7月24日、命日 1965年7月30日
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谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年明治19年〉7月24日 - 1965年昭和40年〉7月30日)は、日本小説家。明治末期から昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。ノーベル文学賞候補者

初期は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズム的な作品について語られることが少なくないが、その作風や題材、文体・表現は生涯にわたって様々に変遷した。漢語雅語から俗語方言までを使いこなす端麗な文章と、作品ごとにがらりと変わる巧みな語り口が特徴。『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評高く、「文豪」「大谷崎」[注 1] と称された。その一方、今日のミステリー・サスペンスの先駆的作品、活劇的な歴史小説、口伝・説話調の幻想譚、果てはグロテスクブラックユーモアなど、娯楽的なジャンルにおいても多く佳作を残している。

来歴・人物
谷崎倉五郎、関の次男として東京市日本橋区蛎殻町二丁目14番地(現:東京都中央区日本橋人形町一丁目7番10号)に誕生。長男・熊吉は生後3日で亡くなったため、潤一郎の出生届は、「長男」として出された[1][2]。次男として誕生した弟の谷崎精二は、のちに作家、英文学者早稲田大学教授)となる[1]

母方の祖父・谷崎久右衛門は、一代で財を成した人で、父は江澤家[3]から養子に入ってその事業の一部を任されていた。しかし、祖父の死後事業がうまくいかず、谷崎が阪本尋常高小四年を卒業するころには身代が傾き、上級学校への進学も危ぶまれた。谷崎の才を惜しむ教師らの助言により、住込みの家庭教師をしながら府立第一中学校(現:日比谷高等学校)に入学することができた。散文漢詩をよくし、一年生のときに書いた『厭世主義を評す』は周囲を驚かせた[1]。成績優秀な潤一郎は「神童」と言われるほどだった[1]

1902年(明治35年)9月、16歳の時、その秀才ぶりに勝浦鞆雄校長から一旦退学をし、第二学年から第三学年への編入試験(飛級)を受けるように勧められる。すると合格し、さらに学年トップの成績をとった。本人が「文章を書くことは余技であった」と回顧しているように、その他の学科の勉強でも優秀な成績を修めた[4]。卒業後、第一高等学校に合格。一高入学後、校友会雑誌に小説を発表した[1]

1908年(明治41年)、一高英文科卒業後に東京帝国大学文科大学国文科に進むが、後に学費未納により中退。在学中に和辻哲郎らと第2次『新思潮』を創刊し、処女作の戯曲『誕生』や小説『刺青』(1910年)を発表。早くから永井荷風によって『三田文学』誌上で激賞され、谷崎は文壇において新進作家としての地歩を固めた。以後『少年』、『秘密』などの諸作を書きつぎ、自然主義文学全盛時代にあって物語の筋を重視した反自然主義的な作風で文壇の寵児となった[5]

大正時代には当時のモダンな風俗に影響を受けた諸作を発表、探偵小説の分野に新境地を見出したり、映画に深い関心を示したりもし、自身の表現において新しい試みに積極的な意欲を見せた[5]

関東大震災の後、谷崎は関西に移住し、これ以降ふたたび旺盛な執筆を行い、次々と佳品を生みだした。長編『痴人の愛』では妖婦ナオミに翻弄される男の悲喜劇を描いて大きな反響を呼ぶ。続けて『』、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』、『武州公秘話』などを発表し、大正以来のモダニズムと中世的な日本の伝統美を両端として文学活動を続けていく[6][7]。こうした美意識の達者としての谷崎の思想は『文章読本』と『陰翳禮讚』の評論によって知られる。この間、佐藤春夫との「細君譲渡事件」や2度目の結婚・離婚を経て、1935年(昭和10年)に、元人妻の森田松子と3度目の結婚をして私生活も充実する[7]

太平洋戦争中、谷崎は松子夫人とその妹たち四姉妹との生活を題材にした大作『細雪』に取り組み、軍部による発行差し止めに遭いつつも執筆を続け、戦後その全編を発表する(毎日出版文化賞朝日文化賞受賞)。同作の登場人物である二女「幸子」は松子夫人、三女の「雪子」は松子の妹・重子がモデルとなっている[8]

1947年(昭和22年)6月9日昭和天皇が京都に行幸(昭和天皇の戦後巡幸)した際、川田順吉井勇新村出とともに京都大宮御所に召し出され座談会に参加した。谷崎は大阪人気質や文楽について話題提供を行った[9]

戦後は高血圧症が悪化、畢生の文業として取り組んだ『源氏物語』の現代語訳も中断を強いられた。しかし、晩年の谷崎は、『過酸化マンガン水の夢』(1955年)を皮切りに、『』、『瘋癲老人日記』(毎日芸術賞)といった傑作を発表。1950年代には『細雪』、『蓼喰ふ虫』が翻訳され、アメリカでも出版[10]ノーベル文学賞の候補には、判明しているだけで1958年1960年から1964年まで7回にわたって選ばれ[11][12]、特に1960年と1964年には最終候補(ショートリスト)の5人の中に残っていた[12][13]。最晩年の1964年(昭和39年)6月には、日本人で初めて全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に選出された[14]

中編・長編

  • 彷徨(第二次新思潮 1911年2月中断)☆
  • 羹(東京日日新聞 1912年7月-11月中断)☆ - 一高時代の体験に基づいた半自伝的小説
  • 鬼の面(東京朝日新聞 1916年1月-5月)
  • 女人神聖(婦人公論 1917年9月-1918年6月)
  • 鮫人(中央公論 1920年1月-10月中断)☆
  • 肉塊(東京朝日新聞 1923年1月-4月)
  • 神と人との間(婦人公論 1923年1月-1924年12月)
  • 痴人の愛大阪朝日新聞 1924年3月-6月。女性 1924年 11月-1925年7月)
  • 青塚氏の話(改造 1926年8月-12月)
  • 黒白(大阪朝日新聞・東京朝日新聞 1928年3月-7月)
  • (改造 1928年3月-1930年4月断続的)
  • 蓼喰ふ虫大阪毎日新聞東京日日新聞 1928年12月-1929年6月)
  • 乱菊物語(東京朝日新聞・大阪朝日新聞 1930年3月-9月)☆
  • 吉野葛(中央公論 1931年1月-2月)
  • 武州公秘話新青年 1931年10月-1932年11月)☆
  • 春琴抄(中央公論 1933年6月)
  • 聞書抄〈第二盲目物語〉(大阪朝日新聞・東京日日新聞 1935年1月-6月)
  • 猫と庄造と二人のをんな(改造 1936年1月・7月)
  • 細雪(中央公論 1943年1月・3月。婦人公論 1947年3月-1948年10月)
  • 少将滋幹の母毎日新聞 1949年11月-1950年2月)
  • (中央公論 1956年1月-12月)                                    その他、多数
     痴人の愛」谷崎潤一郎 [角川文庫] - KADOKAWA     谷崎潤一郎「鍵」と江戸川乱歩「人でなしの恋」原案の2作品 ...   谷崎潤一郎の中国との縁とその文学作品--人民網日本語版--人民日報
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このメッセージは、 2026年8月18日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
ノーベル文学賞の候補には判明しているだけで7回に亘って選ばれ、特に1960年と1964年には最終候補の5人の中に残っていました。   本人にとっては賞には関心が薄かったかもしれませんが・・これは投稿者の推測です。
数々の名作は燦然と輝き続けることでしょう。    合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2026年8月18日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
ノーベル文学賞の候補には判明しているだけで7回に亘って選ばれ、特に1960年と1964年には最終候補の5人の中に残っていました。   本人にとっては賞には関心が薄かったかもしれませんが・・これは投稿者の推測です。
数々の名作は燦然と輝き続けることでしょう。    合掌