(生い立ち)
両親は韓国慶尚南道昌寧郡大合面出身[20][21][22][23][24]。本貫は仁同張氏[25]。父・張相禎が単身来日していたことから[21]、1939年3月[21]、母・朴南田[注 2]が40歳前に身重のまま、兄と2人の姉を連れ日本統治時代の朝鮮から海を越えて内地に渡り、広島で勲を生んだ[4][16][22][26][27]。4人兄弟の末っ子[17]。
当時の広島は大日本陸海軍とも重要拠点を置く軍都で[22][28]、太平洋戦争中の日本で生活する朝鮮人家庭は虐待・差別され、張本一家も六畳一間のトタン屋根のバラックで身を潜めるようにして過ごしていた[22][29][30]。
4歳の冬、とってきたサツマイモを焼くために[31]、土手でとんど[32]を囲んでいた際に、急にバックしてきたトラックを避けようとしたところバランスを崩してしまい、とんどに右半身から飛び込む形になり、右手の親指から中指以外の自由を失う大ヤケドを負う[6][9][11][33][34][35]。右手の小指と薬指はほとんどなかったといわれる[13][36]。
当時の広島は大日本陸海軍とも重要拠点を置く軍都で[22][28]、太平洋戦争中の日本で生活する朝鮮人家庭は虐待・差別され、張本一家も六畳一間のトタン屋根のバラックで身を潜めるようにして過ごしていた[22][29][30]。
4歳の冬、とってきたサツマイモを焼くために[31]、土手でとんど[32]を囲んでいた際に、急にバックしてきたトラックを避けようとしたところバランスを崩してしまい、とんどに右半身から飛び込む形になり、右手の親指から中指以外の自由を失う大ヤケドを負う[6][9][11][33][34][35]。右手の小指と薬指はほとんどなかったといわれる[13][36]。