この追悼サイトは、 張本 勲 (NPB唯一の通算500本塁打、300盗塁達成者)さまのために作成されました。
享年86歳 、誕生日 1940年6月19日、命日 2026年9月9日
※ 張本 勲さんへのメッセージ投稿や、写真アルバムの共有はサインインで可能になります。
張本 勲(はりもと いさお、1940年6月19日[7] - 2026年9月9日)は、広島県広島市出身のプロ野球選手(外野手)[8][9][10]、野球解説者・野球評論家。韓国野球委員会 (KBO) コミッショナー特別補佐官。
NPB唯一の通算3000安打達成者で[11][12][13]、通算安打のNPB記録保持者(3085本)。またNPB唯一の通算500本塁打・300盗塁達成者。さらに史上最多の16度のシーズン打率3割、史上最長の9年連続打率3割のNPB記録保持者。NPBで最多タイ記録となる首位打者を7回獲得[11]。パシフィック・リーグ最多記録となる最高出塁数(現在の最高出塁率)を9回獲得している。NPBにおける猛打賞の最多記録者でもある[14]。広角に放つ打撃で「安打製造機」の異名をとった[9][11][15]。
元在日韓国人二世であるが[2][16][17]、2025年に行われた産経新聞のインタビューで、日本に帰化したことを明らかにしていた[2][1][18]。帰化前の本名は張 勲(チャン・フン、韓国語: 장훈)[4][5][6][注 1]。
愛称は「ハリさん(漢字表記で張さん)」[19]、「ハリ」、「ハリやん」、「ハリー」。血液型はO型。
張本は友達と遊ぼうと思って家の引き戸を引いて出た瞬間、ピカーと光ってドーン。ピカドンの赤い閃光を見た直後に意識を失い[16]、意識が戻った後に記憶しているのは、張本をかばって覆いかぶさり、ガラスの破片で出血していた母の血の赤い色だった[40]。
理髪店で順番を待つ間に「常勝!平安、浪商」と書かれた雑誌を見た張本は行動に移す[21]。まず京都の平安高校に問い合わせたが、途中からは無理と断られる[27]。その後に大阪の浪華商業高校(浪商高等学校を経て現・大体大浪商)野球部に梁川郁雄と一緒に売り込みに行き、同校に転校した[27][57]。
1960年日米野球天性の素質を見出され複数のプロ球団の争奪戦となる[11]。地元の広島カープに行きたい気持ちもあったが[65]、最終的に中日ドラゴンズと東映フライヤーズの一騎討ちになり、交渉事を任していた兄も「スカウト部長が立派な人だし、ここに預かってもらえば大丈夫なのでは」として中日を推していた[66]。
だが、東京への憧れもあり、1959年に東映フライヤーズに入団[9][67]。当時の東映は同郷の先輩である岩本義行を始め[27][68]、山本八郎など母校である浪商の先輩を多数抱えており[27][57]、岩本が監督を務めていたことも入団の決め手の一つになった[66]。
この入団と前後して東映の社長で球団オーナーの大川博は当時プロ野球の規約で「外国人選手は2人まで」となっていた問題の改正に取り組み、「生まれた時に日本の国籍を持っていた選手」は外国人選手に含めないと改正させている。契約金200万で母親のために広島に念願の一軒家を建てた[5][26][30]。若いころ、仲のいい王貞治をこの家に招いたこともある[26][30][69]。
松木謙治郎打撃コーチの「打率も残せて、ホームランも打て、盗塁もできる完璧な打者を目指せ」と長距離砲よりも打率を残せる中距離打者として育てる方針[70]で指導されて猛練習に励んだ。松木の回想によると(後述の怪我により)右手をほとんど使えず、ほぼ左手のみのバッティングで、高めの直球しか打てないバッターだったため、右手の強化や打撃フォームや立ち位置の細かい修正(この際にレベルスイングになった)に臨んだ。
今では常識となっている野球ネットへのヒッティング練習を導入。高校時代は投手としてのみ練習していたため、野手としての練習は苛烈を極めた。当初は張本の長身と風貌から一塁手として育てる予定だったが、打撃練習の際に怪我のことを初めて知り、即日外野手に回した。これらの経緯から張本は松木のことを「大恩人」としている[70]。松木は「ネットに向ってトスを打つバッティング練習を最初にやったのは私と張本なんです」と述べている[21]。
2年目に打率3割を記録し、3年目の1961年に打率.336で21歳にして首位打者となった[9]。
4年目の1962年は本塁打、打点ともに野村克也に次ぐリーグ2位を記録。同年は21敬遠で当時のパ・リーグ記録に並んだ[注 8]。広島で行われたオールスターゲーム第2戦では親族一同を招待し大活躍、MVPに輝き、故郷に錦を飾った[30]。チームのリーグ初優勝に貢献し、リーグMVPと[9]、同年から新設された最高出塁率を獲得した。同年の阪神タイガースとの日本シリーズでは全7試合に4番打者として出場。第6戦で太田紘一から2点本塁打を放つなど26打数12安打と活躍し、チーム日本一の原動力としてシリーズ技能賞を獲得した。
1963年には自身初の30本超えとなる33本塁打、自己最高となる41盗塁を記録[注 9]、同年の22敬遠は野村克也に抜かれるまで5年間パ・リーグ記録だった。1967年から1970年にかけては4年連続首位打者を獲得した。
1970年、打率.383、本塁打34本、打点100の自己最高の成績を残す。このうち打率は大下弘が持っていたシーズン最高打率(.3831)を3毛更新するもので[9]、1986年にランディ・バースが更新するまで16年間日本記録であった。

享年86歳 、誕生日 1940年6月19日、命日 2026年9月9日
※ 張本 勲さんへのメッセージ投稿や、写真アルバムの共有はサインインで可能になります。
張本 勲(はりもと いさお、1940年6月19日[7] - 2026年9月9日)は、広島県広島市出身のプロ野球選手(外野手)[8][9][10]、野球解説者・野球評論家。韓国野球委員会 (KBO) コミッショナー特別補佐官。
NPB唯一の通算3000安打達成者で[11][12][13]、通算安打のNPB記録保持者(3085本)。またNPB唯一の通算500本塁打・300盗塁達成者。さらに史上最多の16度のシーズン打率3割、史上最長の9年連続打率3割のNPB記録保持者。NPBで最多タイ記録となる首位打者を7回獲得[11]。パシフィック・リーグ最多記録となる最高出塁数(現在の最高出塁率)を9回獲得している。NPBにおける猛打賞の最多記録者でもある[14]。広角に放つ打撃で「安打製造機」の異名をとった[9][11][15]。
元在日韓国人二世であるが[2][16][17]、2025年に行われた産経新聞のインタビューで、日本に帰化したことを明らかにしていた[2][1][18]。帰化前の本名は張 勲(チャン・フン、韓国語: 장훈)[4][5][6][注 1]。
愛称は「ハリさん(漢字表記で張さん)」[19]、「ハリ」、「ハリやん」、「ハリー」。血液型はO型。
広島で被爆
翌1945年8月6日、5歳の夏、爆心地から約2kmの広島市段原新町(現在の南区段原)で被爆[4][8][22][37][38]。比治山の影となっていた段原は直接の熱線が届かなかったが、爆風に見舞われ家は倒壊した[5][17][22][39]。張本は友達と遊ぼうと思って家の引き戸を引いて出た瞬間、ピカーと光ってドーン。ピカドンの赤い閃光を見た直後に意識を失い[16]、意識が戻った後に記憶しているのは、張本をかばって覆いかぶさり、ガラスの破片で出血していた母の血の赤い色だった[40]。
中学時代
水泳が一番得意だったが、進学した段原中学校は水泳部がなく、仕方なく野球部に入部[32][43][45]。「もし段中に水泳部があれば、私は野球選手になっていなかったと思います」と述べている[43]。段中2年のときにレギュラーになり、エースで4番打者として広島県大会で優勝した[23]。高校時代
甲子園出場を夢に、地元の強豪・広島商業、広陵高校への入学を希望したが[53]、中学時代の素行不良が理由で叶わず[4][27][54]、野球では全く無名の松本商業高校(現・瀬戸内高校)定時制に進学[34][55]。入学後1か月喧嘩しなかったら普通科に転入させる約束での入学であった[56]。昼間は学生食堂で働き、夜は学業に勤しんだため、野球をする時間が全く取れず[53]、甲子園出場の夢を叶えられそうにないことを悟る[27]。理髪店で順番を待つ間に「常勝!平安、浪商」と書かれた雑誌を見た張本は行動に移す[21]。まず京都の平安高校に問い合わせたが、途中からは無理と断られる[27]。その後に大阪の浪華商業高校(浪商高等学校を経て現・大体大浪商)野球部に梁川郁雄と一緒に売り込みに行き、同校に転校した[27][57]。
プロ野球選手時代
東映時代
だが、東京への憧れもあり、1959年に東映フライヤーズに入団[9][67]。当時の東映は同郷の先輩である岩本義行を始め[27][68]、山本八郎など母校である浪商の先輩を多数抱えており[27][57]、岩本が監督を務めていたことも入団の決め手の一つになった[66]。
この入団と前後して東映の社長で球団オーナーの大川博は当時プロ野球の規約で「外国人選手は2人まで」となっていた問題の改正に取り組み、「生まれた時に日本の国籍を持っていた選手」は外国人選手に含めないと改正させている。契約金200万で母親のために広島に念願の一軒家を建てた[5][26][30]。若いころ、仲のいい王貞治をこの家に招いたこともある[26][30][69]。
松木謙治郎打撃コーチの「打率も残せて、ホームランも打て、盗塁もできる完璧な打者を目指せ」と長距離砲よりも打率を残せる中距離打者として育てる方針[70]で指導されて猛練習に励んだ。松木の回想によると(後述の怪我により)右手をほとんど使えず、ほぼ左手のみのバッティングで、高めの直球しか打てないバッターだったため、右手の強化や打撃フォームや立ち位置の細かい修正(この際にレベルスイングになった)に臨んだ。
今では常識となっている野球ネットへのヒッティング練習を導入。高校時代は投手としてのみ練習していたため、野手としての練習は苛烈を極めた。当初は張本の長身と風貌から一塁手として育てる予定だったが、打撃練習の際に怪我のことを初めて知り、即日外野手に回した。これらの経緯から張本は松木のことを「大恩人」としている[70]。松木は「ネットに向ってトスを打つバッティング練習を最初にやったのは私と張本なんです」と述べている[21]。
2年目に打率3割を記録し、3年目の1961年に打率.336で21歳にして首位打者となった[9]。
4年目の1962年は本塁打、打点ともに野村克也に次ぐリーグ2位を記録。同年は21敬遠で当時のパ・リーグ記録に並んだ[注 8]。広島で行われたオールスターゲーム第2戦では親族一同を招待し大活躍、MVPに輝き、故郷に錦を飾った[30]。チームのリーグ初優勝に貢献し、リーグMVPと[9]、同年から新設された最高出塁率を獲得した。同年の阪神タイガースとの日本シリーズでは全7試合に4番打者として出場。第6戦で太田紘一から2点本塁打を放つなど26打数12安打と活躍し、チーム日本一の原動力としてシリーズ技能賞を獲得した。
1963年には自身初の30本超えとなる33本塁打、自己最高となる41盗塁を記録[注 9]、同年の22敬遠は野村克也に抜かれるまで5年間パ・リーグ記録だった。1967年から1970年にかけては4年連続首位打者を獲得した。
1970年、打率.383、本塁打34本、打点100の自己最高の成績を残す。このうち打率は大下弘が持っていたシーズン最高打率(.3831)を3毛更新するもので[9]、1986年にランディ・バースが更新するまで16年間日本記録であった。
タイトル
- 首位打者:7回(1961年、1967年 - 1970年、1972年、1974年)※イチローと並ぶ最多タイ記録、4年連続は歴代2位。
- 最高出塁率:9回(1962年、1964年、1967年 - 1970年、1972年 - 1974年)※パリーグ最多記録、4年連続はパ・リーグ最長タイ記録(他は柳田悠岐)、タイトル設立は1962年。
- 最多安打:3回(1970年、1972年、1976年)※当時連盟表彰なし。
表彰
- 最高殊勲選手(MVP):1回(1962年)
- 新人王(1959年)
- ベストナイン:16回(1960年 - 1970年、1972年 - 1974年、1976年、1977年)
- 野球殿堂競技者表彰(1990年)
- 月間MVP:1回(1976年6月)
- 日本シリーズ技能賞:1回(1962年)
- 日本シリーズ打撃賞:1回(1977年)
- オールスターゲームMVP:3回(1960年第3戦、1962年第2戦、1974年第3戦)
- センチュリーベストナイン(外野手)[284]
記録
- 通算3085安打 ※NPB記録
- 通算500本塁打300盗塁 ※史上唯一
- 通算3割300本塁打300盗塁 ※NPB史上唯一、MLBでもウィリー・メイズのみ
- シーズン打率.350以上を両リーグで記録(パ:1970年・1972年、セ:1976年)※史上唯一
- シーズン打率3割以上:16回(1960年 - 1962年、1964年、1966年 - 1974年、1976年 - 1978年)※NPB記録
- 9年連続シーズン打率3割以上(1966年 - 1974年)※NPB記録
- シーズン打率.330以上:11回(1961年、1962年、1966年 - 1970年、1972年、1974年、1976年、1977年)※NPB記録
- シーズン150安打以上:9回(1961年、1962年、1964年、1969年 - 1972年、1976年、1977年)※歴代3位タイ
- シーズン100安打以上:20回(1959年 - 1978年)※歴代2位
- シーズン20本塁打以上:16回(1961年 - 1973年、1976年 - 1978年)※歴代3位タイ
- 15年連続打撃ベストテン入り:1960年~1974年 ※パリーグ記録 他、多数あり

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