この追悼サイトは、 佐伯 勇 (近鉄グループの中興の祖と呼ばれる)さまのために作成されました。
享年86歳 、誕生日 1903年3月25日、命日 1989年10月5日
※ 佐伯 勇さんへのメッセージ投稿や、写真アルバムの共有はサインインで可能になります。
佐伯 勇(さえき いさむ、1903年〈明治36年〉3月25日 - 1989年〈平成元年〉10月5日[1])は、日本の実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の元社長、会長、名誉会長で、近鉄グループの総帥。プロ野球・近鉄バファローズのオーナーでもあった。アメリカの大陸横断鉄道の2階建てドームカーを参考にした、世界で初めての2階建電車による特急車のビスタカーの生みの親でもある。位階は正三位。
駅員や運転士などの現業勤務を経て、本社庶務課に配属。秘書課長や総務部長を経て、1947年3月15日に上層部が公職追放で辞任したのを受けて、43歳で取締役になる。同年4月、専務取締役となり、参議院議員を兼任していた村上義一社長に代わって経営の前線に立った。1949年、プロ野球球団・近鉄パールスを設立し、パシフィック・リーグに参加、初代オーナーとなり、以後30年以上にわたりオーナーを務めた。1949年にはアメリカ合衆国に1ヶ月間出張し、交通・観光・デパートなどを視察し帰国。戦後直後の混乱期であり、近鉄においても混雑が常態化していたことから、より乗客が快適に移動できるようにと考え、日本初の有料座席指定特急の運行を実現させた。
1951年、7代目の社長に就任する。同社では初めて社員からの生え抜きでの起用となった。以後、近鉄を合併や路線延伸により日本の私鉄最大手へと押し上げ、高度経済成長期突入直後には、日本初の高加減速車「ラビットカー」や、世界初の本格的なダブルデッカー車「ビスタカー」など、技術的に評価の高い新型車両の導入を進めた。
1959年9月、ヨーロッパへの視察旅行中に、伊勢湾台風が発生し甚大な被害が出た。近鉄でも車両84両が水没し、うち25両が使用不能となり、社員約700人が被災した。佐伯は予定を切り上げて帰国することとしたが、帰国前に滞在先から電報を打ち、「台風で被災した社員の救済を徹底的に行うこと」と指示を出し、社内の士気向上に努めた。帰国後、台風からの復旧に合わせて名古屋線の改軌工事を一気に行うことを決断し、同年11月19日に工事を開始。伊勢中川〜近鉄名古屋間約80kmの改軌工事をわずか9日間で完了させた。翌12月には名阪直通特急の運行を開始した。
また、生駒・青山両トンネルの改良による輸送力増強、近鉄本社の阿倍野橋から創業の地の上本町六丁目(上六)への回帰、鉄道業以外においては近鉄百貨店や近畿日本ツーリストなど近鉄グループの拡大を推進。近鉄グループの企業数は1951年の25社から1970年には170社となった。
社長を21年余り務め、1973年に会長に就任。近鉄中興の祖と呼ばれるようになった。以後もグループのトップとして経営を指揮し続け、1987年には代表取締役相談役名誉会長にまで登り詰めた[2]。
1989年10月5日、近鉄バファローズのリーグ優勝に先立つこと9日で、肝不全のため大阪大学医学部附属病院で死去。86歳没。同日をもって正三位に叙された[3]。翌年1月、妻・千代子も後を追うようにして亡くなった。長男・幸男も、グループの都ホテル東京の常務などを務めた。

西条市佐伯記念館・郷土資料館 愛媛県西条市丹原町池田1711-1
享年86歳 、誕生日 1903年3月25日、命日 1989年10月5日
※ 佐伯 勇さんへのメッセージ投稿や、写真アルバムの共有はサインインで可能になります。
佐伯 勇(さえき いさむ、1903年〈明治36年〉3月25日 - 1989年〈平成元年〉10月5日[1])は、日本の実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の元社長、会長、名誉会長で、近鉄グループの総帥。プロ野球・近鉄バファローズのオーナーでもあった。アメリカの大陸横断鉄道の2階建てドームカーを参考にした、世界で初めての2階建電車による特急車のビスタカーの生みの親でもある。位階は正三位。
来歴・人物
愛媛県周桑郡丹原町(現・西条市)で、佐伯源三郎の三男として生まれる。丹原小学校、松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)と進むが、父親の方針で京都一中(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)へ転校、さらに第三高等学校(旧制・三高)を経て東京帝国大学法学部を卒業した。駅員や運転士などの現業勤務を経て、本社庶務課に配属。秘書課長や総務部長を経て、1947年3月15日に上層部が公職追放で辞任したのを受けて、43歳で取締役になる。同年4月、専務取締役となり、参議院議員を兼任していた村上義一社長に代わって経営の前線に立った。1949年、プロ野球球団・近鉄パールスを設立し、パシフィック・リーグに参加、初代オーナーとなり、以後30年以上にわたりオーナーを務めた。1949年にはアメリカ合衆国に1ヶ月間出張し、交通・観光・デパートなどを視察し帰国。戦後直後の混乱期であり、近鉄においても混雑が常態化していたことから、より乗客が快適に移動できるようにと考え、日本初の有料座席指定特急の運行を実現させた。
1951年、7代目の社長に就任する。同社では初めて社員からの生え抜きでの起用となった。以後、近鉄を合併や路線延伸により日本の私鉄最大手へと押し上げ、高度経済成長期突入直後には、日本初の高加減速車「ラビットカー」や、世界初の本格的なダブルデッカー車「ビスタカー」など、技術的に評価の高い新型車両の導入を進めた。
1959年9月、ヨーロッパへの視察旅行中に、伊勢湾台風が発生し甚大な被害が出た。近鉄でも車両84両が水没し、うち25両が使用不能となり、社員約700人が被災した。佐伯は予定を切り上げて帰国することとしたが、帰国前に滞在先から電報を打ち、「台風で被災した社員の救済を徹底的に行うこと」と指示を出し、社内の士気向上に努めた。帰国後、台風からの復旧に合わせて名古屋線の改軌工事を一気に行うことを決断し、同年11月19日に工事を開始。伊勢中川〜近鉄名古屋間約80kmの改軌工事をわずか9日間で完了させた。翌12月には名阪直通特急の運行を開始した。
また、生駒・青山両トンネルの改良による輸送力増強、近鉄本社の阿倍野橋から創業の地の上本町六丁目(上六)への回帰、鉄道業以外においては近鉄百貨店や近畿日本ツーリストなど近鉄グループの拡大を推進。近鉄グループの企業数は1951年の25社から1970年には170社となった。
社長を21年余り務め、1973年に会長に就任。近鉄中興の祖と呼ばれるようになった。以後もグループのトップとして経営を指揮し続け、1987年には代表取締役相談役名誉会長にまで登り詰めた[2]。
1989年10月5日、近鉄バファローズのリーグ優勝に先立つこと9日で、肝不全のため大阪大学医学部附属病院で死去。86歳没。同日をもって正三位に叙された[3]。翌年1月、妻・千代子も後を追うようにして亡くなった。長男・幸男も、グループの都ホテル東京の常務などを務めた。
著書
- 『運をつかむ 事業と人生と』実業之日本社、1980年10月。

西条市佐伯記念館・郷土資料館 愛媛県西条市丹原町池田1711-1
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