承継
この追悼サイトは、 フイリップ・フランツ・フォン・ シーボルト(ドイツの医師・博物学者)さまのために作成されました。

享年70歳 、誕生日 1796年2月17日、命日 1866年10月18日
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フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトドイツ語: Philipp Franz Balthasar von Siebold、1796年2月17日 - 1866年10月18日)は、ドイツ医師博物学者出島の三学者の一人。

標準ドイツ語での発音は「ズィーボルト」「ジーボルト」に近いが、日本では「シーボルト」と表記されることが多い[注釈 1]

フィリップが9歳になったとき、母とヴュルツブルクからマイン川を半時間ほど遡ったハイディングスフェルトドイツ語版)に移住し、1810年ヴュルツブルクの高校に入学するまでここで育った。12歳からは、地元の司祭となった叔父から個人授業を受けるほか、教会のラテン語学校に通う[1]1815年ヴュルツブルク大学の哲学科に入学するも[1]、家系や親類の意見に従い、医学を学ぶことになる。大学在学中は解剖学の教授のイグナーツ・デリンガードイツ語版)家[注釈 3]に寄寓した。医学をはじめ、動物、植物、地理などを学ぶ。

デリンガー教授宅に寄宿し、植物学者のネース・フォン・エーゼンベック教授の知遇を得たことが彼を植物に目覚めさせた。ヴュルツベルク大学は思弁的医学から、臨床での正確な観察、記述及び比較する経験主義の医学への移行を重視していた。シーボルトの家系の人たちはこの経験主義の医学の『シーボルト学会』の組織までしていた[注釈 4]。どの恩師も医学で学位をとり、植物学に強い関心をもっていた。デリンガー教授(解剖学)がそうであり、専門のエーゼンベック教授はコケ植物、菌類、ノギク属植物等について『植物学便覧』という著作を残している。1822年にはゼンケンベルク自然科学研究学所通信会員、王立レオポルド・カロリン自然研究者アカデミー会員、ヴェタラウ全博物学会正会員に任命され、フランクフルトに新設の博物館用のタイプ標本の収集を依頼される[1][注釈 5]

9月にロッテルダムから出航し、喜望峰を経由して1823年3月にバタヴィア近郊のヴェルテフレーデン(ジャカルタ市内)の第五砲兵連隊付軍医に配属され、東インド自然科学調査官も兼任するも滞在中にオランダ領東インド総督に日本研究の希望を述べ認められる[1]6月末にバタヴィアを出て8月に来日[1]鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎出島のオランダ商館医となる。

出島内において開業の後、1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行う。日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義した。代表として高野長英二宮敬作伊東玄朴小関三英伊藤圭介らがいる。塾生は、後に医者や学者として活躍している。そしてシーボルトは、日本の文化を探索・研究した。また、特別に長崎の町で診察することを唯一許され、感謝された。1825年には出島に植物園を作り、日本を退去するまでに1400種以上の植物を栽培した[1]。また、日本茶の種子をジャワに送ったことにより同島で茶栽培が始まった[1]

来日まもなく一緒になった日本女性の楠本滝との間に娘・楠本イネを1827年にもうける。アジサイを新種記載した際にHydrangea otaksa と命名(のちにシノニムと判明して有効ではなくなった)しているが、これは滝の名前をつけている[6]牧野富太郎が推測している[疑問点 – ノート]。

1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、地図返却を要請されたがそれを拒否したため、出国停止処分を受けたのち国外追放処分となるシーボルト事件)。当初の予定では帰国3年後に再来日する予定だった。

帰国[編集]1830年オランダに帰着する。日本で収集した文学的・民族学的コレクション5000点以上のほか、哺乳動物標本200・鳥類900・魚類750・爬虫類170・無脊椎動物標本5000以上・植物2000種・植物標本12000点を持ち帰る[1][注釈 6]。滞在中のアントワープで東洋学者のヨハン・ヨーゼフ・ホフマンと会い、以後協力者となる。翌1831年にはオランダ政府から叙勲の知らせが届き、ウィレム1世からライオン文官功労勲爵士とハッセルト十字章(金属十字章)を下賜され、コレクション購入の前金が支払われる[1]。同年、蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託されている。1832年にライデンで家を借り、コレクションを展示した「日本博物館」を開設[1]ルートヴィヒ1世からもバエルン文官功労勲章騎士十字章を賜る[1]。オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)を随時刊行する。同書の中で間宮海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記し、その名を世界に知らしめた。

栄誉・栄典[編集]【楠本イネ】

長崎出島に赴任していたドイツ人医師シーボルトと日本人妻の楠本滝の娘として、1827年長崎に生まれる。

父シーボルトは、イネが2歳の時日本を追放され、幼少期は母のもとで暮らす。

18歳の時、向学心から、シーボルトの弟子であった二宮敬作を頼り、この地(西予市宇和町卯之町)を訪ねた。

敬作の下で医学を学び、数ヶ月後、産科修行のため岡山に向かう。その後、28歳で再び敬作に師事し、卯之町、宇和島、長崎と敬作に同行。共に開業し、多くの人を助けた。

47歳で宮内庁御用掛になるなど、高い医術を持ち、日本初の女性産科女医といわれる。

シーボルト記念館-0
    シーボルト記念館  長崎県長崎市鳴滝2-7-40 電話095-823-0707

※注:このサイトは、シーボルトに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝
このメッセージは、 2024年4月2日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
鳴滝塾を開設し西洋医学(蘭学)教育を行い、日本各地からの多くの医者や学者に講義し指導した。  日本の医療に絶大な貢献をしたシーボルトを日本地図を持っていたという理由から国外追放した幕府の狭量さは、今から考えると恥ずべきものである。  娘、孫娘とも日本の医療に多大の貢献をしました。 合掌

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このメッセージは、 2024年4月2日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
鳴滝塾を開設し西洋医学(蘭学)教育を行い、日本各地からの多くの医者や学者に講義し指導した。  日本の医療に絶大な貢献をしたシーボルトを日本地図を持っていたという理由から国外追放した幕府の狭量さは、今から考えると恥ずべきものである。  娘、孫娘とも日本の医療に多大の貢献をしました。 合掌
大切な方の思いで

(誕生)

神聖ローマ帝国司教領ヴュルツブルク[注釈 2](現ドイツ連邦共和国バイエルン州北西部)に生まれる。シーボルト家は祖父、父ともヴュルツブルク大学の医師であり、医学界の名門だった。父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授[1]ヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルト。シーボルトという姓の前にフォン (von) が添えられているが、これは貴族階級を意味し、シーボルト家はフィリップが20歳になった1816年にバイエルン王国ナポレオン戦争の終結に際してヴュルツブルク一帯を領土に加えた)の貴族階級に登録された[1]。シーボルト姓を名乗る親類の多くも中部ドイツの貴族階級で、学才に秀で、医者や医学教授を多数輩出している。

父ヨハン・ゲオルク・クリストフは31歳で死去した。1歳1か月のときである。以後、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられる。母マリア・アポロニア・ヨゼファとの間に2男1女があったが、長兄と長姉は幼年に死去し、弟のフィリップだけが成人した。