承継
こちらは 船越 英二さんの追悼サイトです。心より哀悼の意を表します

本名:船越 榮二郎(ふなこし えいじろう)
諡名:船越榮二郎英二翁命
墓地正受院(マップ)〒160-0022 東京都新宿区新宿2丁目15−20
※五輪塔の墓には「船越家」とあり、両端に墓誌が建つ

兄は同じく俳優の三島健(本名・船越英太郎)妻は女優の長谷川博巳子。1947年、兄の友人から大映の第2回ニューフェイス募集に船越の応募があり、採用される。同年3月、大映東京撮影所の俳優養成所に通い、4月に大映と専属契約を結び、「第二の抱擁」の折原啓子の恋人役でデビューした。

銀幕を熱く輝かせた男たち《日本・大映篇》④~船越英二 : 暗闇の中に世界がある ーこの映画を観ずして死ねるか!ー

和製マルチェロ・マストロヤンニとも謳われ、1971年(昭和46年)の大映倒産まで映画で活躍。その後は主にテレビドラマにて、『時間ですよ』『熱中時代』『暴れん坊将軍』など学園ドラマ・現代劇・時代劇問わず活躍し、いずれも代表作となった。


松居一代 義母亡き後も守り続ける『船越家』墓守りの約束


墓マイラー「歴史上の偉人などの、著名人の墓参りを趣味とする人を俗にいう語」として、まだ新米ですがウェブで記録しております。いろいろ諸先輩方のコメントよろしくお願いします

※ 詳細情報は人生史、アルバム、想いでのタブにて

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大切な方の思いで

生い立ち

船越英二郎は1923年、東京都四谷区内藤新宿(現・東京都新宿区)に生まれた。本名、船越英二郎(ふなこし えいじろう)。四谷第五小学校、帝京中学校を卒業後、美術学校か写真学校への進学を希望していたが、父親の勧めで1941年に専修大学経済学部に入学する。しかし、1944年、兵役のため専修大学を繰り上げ卒業。香川県三豊郡豊浜町(現観音寺市)の陸軍海軍兵学校に入学し、翌年8月の終戦まで見習い将校として勤務した。その後、父の勧めで故郷の新宿で写真屋を開業。1947年、俳優になった兄の友人が、大映の第2回ニューフェイス募集に船越の応募書類を冷やかしで送り、採用された。同年3月、大映東京撮影所俳優養成所を受講し、4月には専属契約となった。

俳優から旅館の主人

1958年、長谷川一夫の姪で女優の長谷川弘美子と結婚し、2年後に長男で後に俳優となる船越英一郎が誕生した。1959年の『野火』は、大岡昇平が脚本を書き、市川崑が監督した。何日も絶食して役作りをし、フィリピン戦線で飢餓の中をさまよう敗残兵の演技が絶賛され、第33回キネマ旬報ベスト・テン主演男優賞、第14回毎日映画コンクール主演男優賞をはじめさまざまな映画賞を受賞した。その後、『黒い十人の女』(1964年)、『破戒』(1967年)、『私は二人』(1971年)などの話題作に出演している。1965年、息子の英一郎の喘息治療のため神奈川県湯河原町(足柄下郡)に住居を移し、会員制旅館「船越」を設立。1971年、大映の倒産を機にテレビドラマに活動の場を移し、『時間ですよ!』『熱き時代』『暴れん坊将軍』など、代表作を次々と発表した。

船越家の五輪塔

日本映画の黄金時代、この時期にデビューした女優たちは、頻繁に主演女優に抜擢され、スクリーンの中で有名な存在となった。中でも長谷川弘美子は、片岡千恵蔵の「大菩薩峠」シリーズのお浜とお豊の二役から、大友柳太朗の「丹下左膳」シリーズの濃い櫛巻お藤まで、さまざまな役をこなす「姫女優」として大映撮影所で頭角を現したのである。引退後は湯河原で平穏な生活を送っていたが、息子の嫁と船越英二(夫の元教え子)の確執、旅館の廃業、娘の自殺と不幸に見舞われた。

墓は東京都新宿区(旧神奈川県)の正受院にあるが、2013年2月23日、松井和代(英治の息子と結婚して船越と改姓)が移した。現在、彼女の墓石の上には「船越家」と書かれた五輪塔が建っている。
想いで

松居一代 義母亡き後も守り続ける『船越家』墓守りの約束

鉄男藤原さんが2023年2月24日に投稿
2010年7月29日、松井の義母である船越の母・弘美子(享年85歳)が癌で亡くなった。それまで松居を息子の嫁として認めなかったが、松居と連絡を取り、「お墓とご先祖様をしっかりお願いね」『頼んだわよ、一代さん』と言われた。それから、お墓のお参りやお掃除を、決して欠かしたことがありません。
また、墓をリフォームしたのは、“嫁姑の約束”を律儀に守り続ける妻への“感謝の証”です。