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この追悼サイトは、 河島 英五(シンガーソングライター、俳優)さまのために作成されました。

享年48歳 、誕生日 1952年4月23日、命日 2001年4月16日
※ 河島さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。

河島 英五(かわしま えいご、1952年昭和27年)4月23日 - 2001年平成13年)4月16日)は、日本シンガーソングライター俳優
大阪府東大阪市出身。大阪府立花園高等学校卒業。

晩年は、大阪府四條畷市に居住した。

身長は182cm、血液型はB型

男の強さや哀しさ、優しさ、父親としての心情を唱いあげた数々の曲は、時代を越えて男性の共感を呼び、歌い継がれている

若い頃にギターを持って世界を放浪し、庶民の暮らしに触れ、音楽を通して共に喜怒哀楽を共有し合った経験が、河島の音楽の礎を築いている。

内外のミュージシャンが驚くほどパワフルな音量と大声で歌い上げる姿と、「男らしさ」にこだわった歌詞が特徴

コンサート活動は、大都市だけでなく山間部や僻地でも行い、音楽を通じてファンと交流することに主眼を置いた。

家族・親族[編集]
長女は、タレントの河島あみる。次女は、音楽ユニット「アナム&マキ」のメンバー・河島亜奈睦。長男は、歌手の河島翔馬。

来歴[編集]
1969年、高校在学中にフォークソングを始める[1]。高校卒業後「ホモ・サピエンス」というグループで活動[1]。京都の自主レーベル京都レコードからデビュー。支離滅裂派フォークとして、あのねのねらと活動を共にした[1]。デビュー当時は、その風貌とボーカルスタイルから"吉田拓郎の再来"などと騒がれた[1][2]

1973年、グループ解散後ソロ活動開始。

1975年4月、「河島英五とホモ・サピエンス」でメジャー・デビュー[1]

1976年6月、「酒と泪と男と女」でソロ活動を開始する。

代表曲は「酒と泪と男と女」(作詞・作曲:河島英五、編曲:宮本光雄)。この曲は河島が19才の時、彼の叔父の姿を見て作ったものである。萩原健一がカバーし、テレビの歌番組などで歌っていたが、同じ頃、河島の歌唱版が京都伏見清酒メーカー・黄桜酒造(現:黄桜)のCMソングとして使われるようになると全国的なヒットとなり、河島の名も全国的に知られるようになった

その他の代表曲は「野風増」(橋幸夫らと競作)、「時代おくれ」、「生きてりゃいいさ」(加藤登紀子に書き下ろした楽曲、河島もシングルで発売)など多数

「時代おくれ」は、現在も多くの親父世代にカラオケで歌われており、志村けん松本人志朝青龍山本浩二久保竜彦らも愛唱歌としている。

また、ボリビアを代表するフォルクローレグループの「ロス・カルカス」(Los Kjarkas)のオリジナル曲「Llorando se fue(ジョランド・セ・フエ:泣きながら去った、日本語題:『泣きながら』)」を無断盗用してフランスの「カオマ」(Kaoma) がダンスナンバーにアレンジした“ランバダ(Lambada)”をヒットさせる(1989年。オリコン最高位12位)以前から、『花の種がはじけるように』というタイトルでアンデスを舞台にした哀調の日本語ナンバーに仕上げてレパートリーとしていた。

1980年代、ケニアの首都ナイロビにある「グリーンバー」という酒場のジュークボックスには「酒と泪と男と女」のレコードがあり、日本人客が来ると現地の娼婦などがこの曲をよくかけていた。当時、旅行者の間では、河島がグリーンバーに立ち寄った際、「俺は日本の歌手だ」と言っても誰も信じてくれなかったために自分のレコードを置いていったとされる逸話が伝わっていた。

1987年、NHK「北陸東海」(中部7県で放送)の「英五のろまんちすと紀行」に旅人として出演し、中部7県(愛知県岐阜県三重県静岡県富山県石川県福井県)各地を訪れた。河島は番組のテーマソング「ろまんちすと」を1987年9月21日に発売している。

時代おくれ」で、『第42回NHK紅白歌合戦』(1991年)初出場歌手として選出された。当日は第1部の白組トリで、ピアノの弾き語りで披露した

阪神・淡路大震災の被災者を励ますために、友人の桂南光らと毎年神戸でチャリティコンサート「復興の詩」を開いていた。逝去した2001年開催のコンサートでは、河島の3人の子供たちと桂南光が、遺作『旧友再会』を観客と共に歌った。

長女・河島あみるの結婚式に参列後の2001年4月16日肝臓疾患のため急逝。48歳没。亡くなる2日前にライブを行ったのが最後の仕事だった。亡くなる前日に体調が悪化、病院に運ばれるも既に手遅れの状態で、家族に看取られ息を引き取った。

告別式終了後の出棺の際、棺の上に遺影が置かれ、参列者から口々に「英五」の連呼が起こった。ヒット曲「野風増」の歌詞には息子が20歳になれば2人で酒を呑みたいという歌詞があったが、河島自身は歌詞通り息子・翔馬と杯を交わすことは叶わなかった。

第52回NHK紅白歌合戦』(2001年)では友人の堀内孝雄が河島の歌唱映像をバックに涙ながらに「酒と泪と男と女」を歌唱した

河島の墓は奈良市十輪院に建てられている。

河島の命日となった4月16日は彼が好きな花の「桜」と歌詞によく使っていた「風」の文字を採り『桜風忌』と呼ばれている

河島英五のヒット曲
   〇 酒と泪と男と女          〇 時代おくれ
   〇 野風増              〇 旅的途上(たびのとじょう)
   〇 生きてりゃいいさ         〇 元気ですか
   〇 てんびんばかり          〇 晩秋
   〇 ほろ酔いで            〇 いくつかの場面
   〇 元気出してゆこう         〇 竜馬のように
   〇 生まれる前から好きやった     〇 のんべ
   〇 地団駄              〇 泣きぬれてひとり旅
  他、多数あり

※注:このサイトは、河島英五に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2025年6月6日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
男の哀愁を描き、男の強さや哀しさ、優しさ、父親の心情を唱い上げた数々の名曲を遺した河島英五は惜しまれながら48歳で早逝しました。  ファンの胸の内に、いつまでも在るでしょう!   合掌

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このメッセージは、 2025年6月6日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
男の哀愁を描き、男の強さや哀しさ、優しさ、父親の心情を唱い上げた数々の名曲を遺した河島英五は惜しまれながら48歳で早逝しました。  ファンの胸の内に、いつまでも在るでしょう!   合掌