承継
この想いでサイトは、 太宰 治さまを承継するために作成されました。

太宰 治 1909.6.19-1948.6.13 ( 38歳)⇒本名:津島 修治(つしま しゅうじ)

太宰 治は、日本の小説家。左翼活動での挫折後、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に『走れメロス』『津軽』『人間失格』がある。没落した華族の女を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。


墓地禅林寺(黄檗宗 霊泉山)東京都、三鷹市
戒名:文綵院大猷治通居士 ( ぶんさんいんだいゆうじつうこじ )
※ 太宰と鴎外の墓は斜めに向き合っている。

関連リンク



太宰治が生前、森鴎外を敬愛し影響を受けていたのは確かなようで、それは本人が記した一文「たち依らば大樹の陰、たとえば鴎外、森林太郎」にもよく表れています。ちなみに、墓石に刻まれた「太宰治」の文字は師匠であった井伏鱒二の筆によるものです。


Osamu Dazai.jpg
※ 太宰さんへのメッセージ投稿や、想いでの共有はサインイン(記帳)で可能になります。

メッセージは治さんへの想いを表すものです。 こちらに最初のメッセージを投稿してください。

メッセージの投稿

 
大切な方の思いで

富栄の公式遺書

「私ばかり幸せな死にかたをしてすみません。
奥名(※4年前に戦場で行方不明。新婚生活は12日間しかなかった)と少し長い生活ができて、愛情でも増えてきましたらこんな結果ともならずにすんだかもわかりません。
山崎の姓に返ってから(※まだ奥名籍だった)死にたいと願っていましたが・・・
骨は本当は太宰さんのお隣りにでも入れて頂ければ本望なのですけれど、それは余りにも虫のよい願いだと知っております。
太宰さんと初めてお目もじしたとき他に二、三人のお友達と御一緒でいらっしゃいましたが、お話しを伺っております時に私の心にピンピン触れるものがありました。
奥名以上の愛情を感じてしまいました。
御家庭を持っていらっしゃるお方で私も考えましたけれど、女として生き女として死にとうございます。
あの世へ行ったら太宰さんの御両親様にも御あいさつしてきっと信じて頂くつもりです。
愛して愛して治さんを幸せにしてみせます。
せめてもう一、二年生きていようと思ったのですが、妻は夫と共にどこまでも歩みとうございますもの。
ただ御両親のお悲しみと今後が気掛りです。」

※“女として生き女として死にたい”“妻は夫と共にどこま迄も歩みたい”など、富栄の太宰への想いは心底からのものだった。

心中当日の山崎富栄の日記

「六月十三日
遺書をお書きになり 御一緒に連れて行っていただく
みなさん さようなら
父上様 母上様 御苦労ばかりおかけしました ごめんなさい
お体大切に、仲睦まじくおすごし下さいまし
あとのこと、おねがいいたします。
(中略)
静かに、小さく、とむらって下さい
奥様すみません
修治さんは肺結核で左の胸に二度めの水が溜まり、このごろでは痛い痛いと仰言るの、もうだめなのです。
みんなしていじめ殺すのです。いつも泣いていました。
豊島先生(※作家、豊島与志雄)を一番尊敬して愛しておられました。
野平さん、石井さん、亀島さん(※3名とも編集者)、太宰さんのおうちのこと見てあげてください。
園子ちゃん(※太宰の長女、7歳)ごめんなさいね。
-中略-
兄さん(富栄の兄)すみません あと、おねがいいたします。
すみません」


富栄が死の当日、同じ愛人の太田静子に宛てた手紙


「太宰さんは、お弱いかたなので、貴女やわたしや、その他の人達にまで、おつくし出来ないのです。
わたしは太宰さんが好きなので、ご一緒に死にます。
太田様のこと(※治子出産のこと)は、太宰さんも、お書きになりましたけど、後の事は、お友達のかたが、下曽我(※太田の家)へおいでになることと存じます。」

妻に宛てた太宰の遺書(抜粋)

「美知様 誰よりもお前を愛していました」
「長居するだけみんなを苦しめこちらも苦しい、堪忍して下されたく」
「皆、子供はあまり出来ないようですけど陽気に育てて下さい。あなたを嫌いになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです。みんな、いやしい欲張りばかり。井伏さんは悪人です。」
想いで

禅林寺

墓マイラー趣味クラブさんが2023年6月13日に投稿
『禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持が畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。私には、そんな資格が無い。立派な口髭を生やしながら、酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私に無い。お前なんかは、墓地の択(え)り好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと、身の程を知らなければならぬ。私はその日、鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、あわてて帰宅したのである。』--1944年に発表された『花吹雪』にこの一節があり、意が汲まれて太宰の墓は鴎外の斜め向かいに建立された。