この追悼サイトは、 坂口 安吾 (小説家、代表作「堕落論」「白痴」「風博士」)さまのために作成されました。
享年48歳 、誕生日 1906年10月20日、命日 1955年2月17日
※ 坂口 安吾さんへのメッセージ投稿や、写真アルバムの共有はサインインで可能になります。
坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。
第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した、近現代日本文学を代表する小説家の一人である。純文学のみならず、歴史小説や推理小説、文芸や時代風俗から古代史まで広範に材を採る随筆、囲碁・将棋におけるタイトル戦の観戦記などの多彩な活動を通し、無頼派、新戯作派と呼ばれる地歩を築いた。
戦前はファルス的ナンセンス作品『風博士』で文壇に注目され、一時低迷した後、終戦直後に発表した『堕落論』『白痴』により時代の寵児となり、太宰治、織田作之助、石川淳らと共に、無頼派・新戯作派と呼ばれる地歩を築いた[1][2]。
文学においての新人賞である芥川龍之介賞の選考委員を第21回から第31回の間務め、松本清張や辻亮一、五味康祐などの作家を推した。歴史小説では黒田如水を主人公とした『二流の人』、推理小説では『不連続殺人事件』が注目された[1][3]。
坂口安吾は純文学だけではなく、歴史小説や推理小説、文芸、時代風俗から古代まで広範な歴史における題材を扱った随筆や、フランス文学の翻訳出版、囲碁・将棋におけるタイトル戦の観戦記など、多彩な活動をした。一方で気まぐれに途中で放棄された未完、未発表の作品も多く、小説家としての観点からはけっして「器用な」小説家とはいえないが[1]、その作風には独特の不思議な魅力があり、狂気じみた爆発的性格と風が吹き通っている「がらんどう」のような風格の稀有な作家だといわれている[1][4][5]。
この頃、短歌を書く時の名前を「安吾」と称するようになる。「安吾」とは、心安らかに暮らすことを意味する「安居」のことである[2]。のちに安吾は、〈僕は荒行で悟りを開いたから、安吾にした〉と鵜殿新に語っている[16]。芥川龍之介、佐藤春夫、正宗白鳥の作品や、チェホフ『退屈な話』など、多くの文学書を愛読する。
1930年(昭和5年)3月に東洋大学を卒業した安吾は、既成の文学者のようになれない自分に煩悶し、書くべきものの必然性を求めて寄席やレビュー、歌舞伎を観たり、音楽(エリック・サティなど)を聴いたり、有名になりたいという野心と裏腹にカフェーの支配人になろうともするが、アテネ・フランセ高等科に進み、本格的に20世紀フランス文学を学ぶ。
代表作『風博士』(1931年)
『日本文化私観』(1943年)
『堕落論』(1947年)
『白痴』(1947年)
『桜の森の満開の下』(1947年)
『二流の人』(1947年)
『不連続殺人事件』(1948年)
『夜長姫と耳男』(1953年)主な受賞歴探偵作家クラブ賞(1948年)
文藝春秋読者賞(1950年)デビュー作『木枯の酒倉から』(1931年) その他、多数
安吾は幼少期から「絶対的な富や権力は存在しない」という厳しい現実を肌で感じていました。このシビアな原体験が、建前を嫌い、物事の本質を鋭く見抜く独自の洞察力を養ったと言えます。
逆境の原体験を自らの「武器」に変える
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享年48歳 、誕生日 1906年10月20日、命日 1955年2月17日
※ 坂口 安吾さんへのメッセージ投稿や、写真アルバムの共有はサインインで可能になります。
坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。
第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した、近現代日本文学を代表する小説家の一人である。純文学のみならず、歴史小説や推理小説、文芸や時代風俗から古代史まで広範に材を採る随筆、囲碁・将棋におけるタイトル戦の観戦記などの多彩な活動を通し、無頼派、新戯作派と呼ばれる地歩を築いた。
人物
新潟県新潟市出身。東洋大学印度哲学倫理学科(現・文学部 東洋思想文化学科)卒業。アテネ・フランセでフランス語習得。戦前はファルス的ナンセンス作品『風博士』で文壇に注目され、一時低迷した後、終戦直後に発表した『堕落論』『白痴』により時代の寵児となり、太宰治、織田作之助、石川淳らと共に、無頼派・新戯作派と呼ばれる地歩を築いた[1][2]。
文学においての新人賞である芥川龍之介賞の選考委員を第21回から第31回の間務め、松本清張や辻亮一、五味康祐などの作家を推した。歴史小説では黒田如水を主人公とした『二流の人』、推理小説では『不連続殺人事件』が注目された[1][3]。
坂口安吾は純文学だけではなく、歴史小説や推理小説、文芸、時代風俗から古代まで広範な歴史における題材を扱った随筆や、フランス文学の翻訳出版、囲碁・将棋におけるタイトル戦の観戦記など、多彩な活動をした。一方で気まぐれに途中で放棄された未完、未発表の作品も多く、小説家としての観点からはけっして「器用な」小説家とはいえないが[1]、その作風には独特の不思議な魅力があり、狂気じみた爆発的性格と風が吹き通っている「がらんどう」のような風格の稀有な作家だといわれている[1][4][5]。
偉大なる落伍者」への決意
中学2年の時に、4科目(英語、博物など)で不合格となり留年したため、家庭教師をつけられるなどしたが、逃げ回っていた。勉強をしない炳五に漢文の教師が、「お前なんか炳五という名は勿体ない。自己に暗い奴だからアンゴと名のれ」と黒板に「暗吾」と書いたとされ、これが「安吾」の由来とされる[9][13]。1922年(大正11年)、反抗的な落伍者への畏敬の念が強く、ボードレールや石川啄木の影響を受けていた炳五は、試験の際に答案を配られた直後、白紙で提出するなど反抗的態度を取る。悟達への想いと求道
関東大震災のあった1923年(大正12年)11月2日に父・仁一郎が細胞肉腫、後腹膜腫瘍で死去(64歳で没)。戸塚を離れ、池袋などを転々と引っ越し、1925年(大正14年)から兄と荏原郡大井町字元芝849(現・品川区東大井)に転居。本当は山に入って暮らすことを考えていたが、父の財産管理で10万円の借金があったことから、3月に豊山中学校を卒業後は代用教員になることを決心し、荏原郡世田ヶ谷町の荏原尋常高等小学校(現・若林小学校)に採用され、その分教場(現・代沢小学校)の代用教員となり、5年生を担当する。分教場主任の家に下宿し、月給は45円であった。生徒への教育方針は「温い心や郷愁の念を心棒に強く生きさせる」ことで[15]、優しいが怖い先生だったという[14]。この頃、短歌を書く時の名前を「安吾」と称するようになる。「安吾」とは、心安らかに暮らすことを意味する「安居」のことである[2]。のちに安吾は、〈僕は荒行で悟りを開いたから、安吾にした〉と鵜殿新に語っている[16]。芥川龍之介、佐藤春夫、正宗白鳥の作品や、チェホフ『退屈な話』など、多くの文学書を愛読する。
フランス語と同人『言葉』
大学でサンスクリット語などの辞書を読むために、さらにラテン語、フランス語を学び、1928年(昭和3年)に神田三崎町のアテネ・フランセ初等科に通い始める[19]。そこで、フランス語を成績優秀で「賞」をもらうほど習熟し、同校に通う長島萃、江口清とも知り合う。当時の安吾は詰襟服にソフト帽を押し潰したようにかぶり、まだ酒も飲まず、講義に欠かさず出席して神経衰弱を治すために勉強に打ち込んでいたと江口清は述懐している[20]。安吾は彼らと読書会を開き、モリエール、ヴォルテール、ボーマルシェ、デュアメル などに惹かれた。当時隆盛であった左翼文学やプロレタリア文学には全く魅力を感じず、佐藤春夫、宇野浩二、葛西善蔵、有島武郎を愛読し、小説家への夢を本格的に固める。この頃に第2回『改造』懸賞創作に小説を応募するが落選する[10]。翌1929年(昭和4年)、アテネ・フランセ中等科へ進んだ安吾は、校友会に参加し、菱山修三、葛巻義敏らとも知り合った[19][14]。11月に再び、第3回『改造』懸賞創作に応募して落選したとされる[10]。1930年(昭和5年)3月に東洋大学を卒業した安吾は、既成の文学者のようになれない自分に煩悶し、書くべきものの必然性を求めて寄席やレビュー、歌舞伎を観たり、音楽(エリック・サティなど)を聴いたり、有名になりたいという野心と裏腹にカフェーの支配人になろうともするが、アテネ・フランセ高等科に進み、本格的に20世紀フランス文学を学ぶ。
時代の寵児——『堕落論』、『白痴』
1946年(昭和21年)になると雑誌が復刊され出し、1月に「わが血を追ふ人々」(『島原の乱』構想の一部を独立させたもの)を『近代文學』に発表。4月に『新潮』に発表した評論「堕落論」は、終戦後の暗澹たる世相の中で戦時中の倫理や人間の実相を見つめ直し、〈堕ちきること〉を考察して、敗戦に打ちのめされていた日本人に大きな影響を与えた[1]。同誌に6月に発表した小説「白痴」も大きな反響を呼び、この2作によって脚光を浴びた安吾は一躍人気作家となる[1]。続いて7月に「外套と青空」を『中央公論』、9月に「女体」を『文藝春秋』、「欲望について」を『人間』、「我鬼」(のち『二流の人』に挿入)を『社会』を発表。「女体」は、夏目漱石の作品を〈全然肉体を生活してゐない〉とし、〈一組の夫婦の心のつながりを、心と肉体とその当然あるべき姿に於て歩ませる〉という主題の作品である代表作『風博士』(1931年)
『日本文化私観』(1943年)
『堕落論』(1947年)
『白痴』(1947年)
『桜の森の満開の下』(1947年)
『二流の人』(1947年)
『不連続殺人事件』(1948年)
『夜長姫と耳男』(1953年)主な受賞歴探偵作家クラブ賞(1948年)
文藝春秋読者賞(1950年)デビュー作『木枯の酒倉から』(1931年) その他、多数
生まれは明治39(1906)年、父親は新潟県選出の衆議院議員でした。坂口家は古くから続く由緒ある旧家で、もともとは新潟有数の大富豪だった家系です。「阿賀野川の水が尽きても、坂口家の富は尽きない」と言われていたほどでしたが、投機などで失敗し、安吾の祖父の代から少しずつ、傾きかけていました。
――『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』より
「絶対に潰れない」と信じられていた大企業が、一夜にして窮地に陥る。これは現代のビジネスシーンでも決して珍しくない光景です。――『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』より
安吾は幼少期から「絶対的な富や権力は存在しない」という厳しい現実を肌で感じていました。このシビアな原体験が、建前を嫌い、物事の本質を鋭く見抜く独自の洞察力を養ったと言えます。
逆境の原体験を自らの「武器」に変える
注:このサイトは、坂口安吾に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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