承継
この追悼サイトは、 アガサ・クリスティ(推理作家) (「ミステリーの女王」と呼ばれた)さまのために作成されました。

享年85歳 、誕生日 1890年9月15日、命日 1976年1月12日
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アガサ・メアリ・クラリッサ・クリスティ(Dame Agatha Mary Clarissa Christie、DBE、旧姓:ミラー(Miller)、1890年9月15日[1] - 1976年1月12日[2])は、イギリス推理作家66冊の探偵小説と14冊の短編集で知られ、発表された小説の多くは世界的なベストセラーとなり「ミステリーの女王」と呼ばれた[3][4][5]。特に架空の探偵エルキュール・ポアロと ミス・マープルを主人公とする小説で有名である。メアリ・ウェストマコット(Mary Westmacott)名義の小説が6作品ある。

1971年、大英勲章第2位(DBE)に叙され「デイム・アガサ」となる。英国推理作家のクラブであるディテクションクラブの第4代会長。

ユネスコインデックス・トランスラチオヌムによると、最も翻訳された作家英語版)である。小説『そして誰もいなくなった』は、約1億部を売り上げ[6]、史上最も売れた本の一つである。戯曲『ねずみとりは、演劇史上最長のロングラン記録を持っている[注釈 1]

小説家へ
父の破産と病死(1901年11月 死因は肺炎と腎臓病)[11]、自身の結婚と離婚など様々な出来事を乗り越えながらも、アガサは小説家として執筆活動を続けていった。

1909年、自身初の長編小説『砂漠の雪』を書き、隣家の作家イーデン・フィルポッツの指導を受ける。私生活では1914年アーチボルド・クリスティ大尉(1889年 - 1962年)と結婚し、1919年に娘ロザリンド・ヒックス英語版)(1919年 - 2004年)を出産する。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として勤務し、そこで毒薬の知識を得る

1920年、数々の出版社で不採用にされたのち、ようやく『スタイルズ荘の怪事件』を出版し、ミステリー作家としてデビューする。1926年に発表した『アクロイド殺し』における大胆なトリックと意外な真犯人を巡って、フェアかアンフェアかの大論争がミステリ・ファンの間で起き、一躍有名となる。また、この年には母が死去しており、アガサは謎の失踪事件を起こす。

失踪事件
デーリー・ヘラルド英語版)は、1926年12月15日の紙面にて、ヨークシャーのSwan Hydropathic Hotel英語版)で発見されたことを伝えた。アガサ・クリスティ失踪事件とは、ロンドン近郊の田園都市サニングデールに住んでいたアガサ・クリスティ(当時36歳)が1926年12月3日、自宅を出たまま行方不明となった事件を指す。警察は自発的な失踪として探す一方、事件に巻き込まれた可能性も視野に入れて捜査をした。後述のように、アガサと夫のアーチボルドは問題を抱えていたことからアーチボルドの犯行という推測も出た。
当時のアガサは、ロンドンの金融街で働いていた夫のアーチボルド、一人娘のロザリンド(当時7歳)と田舎の大邸宅で暮らしていた。休日にはアーチボルドはゴルフに熱中していたが、アガサはゴルフをしなかった。家事はメイドを雇い、執筆の仕事では秘書のシャーロットを住まわせていた(シャーロットはアガサの信頼を得て、長く彼女の側で勤めることになる)。

キャリアにおいては、『アクロイド殺し』(1926年)によりベストセラー作家の仲間入りを果たす一方で、事件の前には最愛の母親を亡くし、また夫には恋人がいた事実に傷つけられていた。事件の起きた日、アガサは住み込みのメイドに行き先は告げずに外出すると伝え、当時は珍しかった自動車を自ら運転して一人で出かけている。その際に彼女は秘書のシャーロットと夫に手紙を残している

なぜ失踪したのかについては諸説あり、伝記作家の間でもこの件については、心身が耗弱していた、意図的な行動であった等、意見が分かれているが、自伝では事件について触れていない。しかし、事件の結果としてマスコミや世間の好奇の対象とされたアガサが心に傷を負った点、そしてこれ以降の彼女の内面世界が徐々に変化を見せた点に関しては諸説一致している。

この失踪事件を題材に、独自の解釈でアガサ・クリスティをめぐる人間模様を描いた映画『アガサ 愛の失踪事件』が1979年に公開された

再婚とその後の人生
1928年にアーチボルドと離婚するが、1930年中東旅行で出会った、14歳年下の考古学者のマックス・マローワン1904年5月6日 - 1978年8月19日)とその年の9月11日に再婚する。この結婚について「クリスティはなぜ彼と結婚したかと問われて『だって考古学者なら、古いものほど価値を見出してくれるから』と答えた」という逸話がある。一説によるとそれは誰かが流した心ないジョークで、アガサはジョークの作者を殺してやるといきまいていたとも言われるが(ハヤカワ・ミステリの解説より)、孫のマシュー・プリチャードはアガサ自身が冗談めかしてこのように語ったとしている(『オリエント急行殺人事件』DVD特典インタビューより)。

1943年に『カーテン』および『スリーピング・マーダー』を執筆。死後出版の契約を結ぶ。私生活では孫マシュー・プリチャードが誕生している。

1973年に『運命の裏木戸英語版)』を発表。これが最後に執筆されたミステリー作品となった。

作品
1920年のデビューから85歳で亡くなるまで長編小説66作、中短編を156作、戯曲15作、メアリ・ウェストマコット (Mary Westmacott) 名義の小説6作、アガサ・クリスティ・マローワン名義の作品2作、その他3作を執筆。ほとんどが生前に発表されている。中でも『アクロイド殺し』(1926年)・『オリエント急行の殺人』(1934年)・『ABC殺人事件』(1936年)・『そして誰もいなくなった』(1939年)等は世紀をまたいで版を重ねており、世界的知名度も高い。また生前中に刊行されなかった作品や死後に見つかった未発表作、小説作品の戯曲化、あるいはその逆など細かい物を含めればまだ数点増える[注釈 3]

推理の謎解きをするエルキュール・ポアロミス・マープルトミーとタペンスといった名探偵の産みの親でもある。

小説

エルキュール・ポアロとミス・マープル

1920年に発表された処女作『スタイルズ荘の怪事件』で初登場した、探偵エルキュール・ポアロは、長編33作と50以上の短編に登場する。しかしアガサは、長年の間にポアロに愛想を尽かしてしまう。1930年代の終わりには、アガサは日記にポアロを「我慢できない」と書き、1960年代には「自分勝手な変人」だと感じていた[13]

ミス・ジェーン・マープルは、1927年12月から発表された一連の短編(短編集『火曜クラブ』に収録)で登場する[14]。マープルは上品な年配の独身女性で、イギリスの村の生活になぞらえて事件を解決する[15]。「ミス・マープルは決して私の祖母を描いたものではありません。彼女は私の祖母よりもずっと気難しく、オールド・ミス的でした」とアガサは語っているが、彼女の自伝は、この架空の人物とアガサの継祖母マーガレット・ミラー(「グラニーおばさん」)および彼女の「イーリング取り巻き」達との間にしっかりした関係があるとしている[16][17]。マープルもミラーも、「誰に対しても、何に対しても、常に最悪の事態を想定し、それが恐ろしいほどの正確さで、たいてい正しいことが証明されるのである」[16]。マープルは12の長編と20の短編に登場する。

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このメッセージは、 2026年1月12日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
発表された小説の多くは世界的なベストセラーとなり「ミステリーの女王」と呼ばれた大作家です。 映画化された作品も数多い。  いつまでも愛され続けるでしょう。   合掌

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このメッセージは、 2026年1月12日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
発表された小説の多くは世界的なベストセラーとなり「ミステリーの女王」と呼ばれた大作家です。 映画化された作品も数多い。  いつまでも愛され続けるでしょう。   合掌
軌跡

(生い立ち)

1890年、資産家の父フレデリック・アルヴァ・ミラー(1846年 - 1901年)と母クララ・ベーマー(1854年 - 1926年、イギリス陸軍士官の娘)の次女としてイギリス南西部のデヴォンシャーに生まれる。3人姉弟の末っ子で、10歳近く年の離れた姉と兄がいた。しかし姉マーガレット(1879年 - 1950年)は寄宿学校におり、長兄モンタント(1880年 - 1929年)はパブリックスクールを退校して軍に入隊していたために幼少期を共にする機会が少なく、もっぱら両親や使用人たちと過ごした。

父フレデリックはアメリカ人の事業家だったが商才に乏しく、祖父の残した遺産を投資家に預けて、自身は働かずに暮らしていた。母クララは父の従妹で、少々変わった価値観を持つ「変わり者」として知られていた。母の性格はアガサや家族の運命に少なからず影響を与えたが、フレデリックは奔放な妻を生涯愛し続け、アガサも母を尊敬し続けた。

(少女時代)

少女時代のアガサは兄や姉のように正規の学校で学ぶことを禁じられ、母から直接教育を受けた。母クララの教育に対する風変わりな信念は大きな影響を幼いアガサに与えた。例えばクララは「7歳になるまでは字が書けない方が良い」と信じており、アガサに字を教えなかった。それによりアガサは世間一般の子供より識字が遅く、父がこっそり手紙を書く手伝いをさせるまで満足に文字を書けなかった。変則的な教育は、字を覚えた後も独特の癖をアガサに残してしまい、現存している子供時代の手紙はスペルミスが非常に多い。

同年代の子供がパブリックスクールで教育を受けている間も、アガサは学校に入学することを許されなかった。同年代の友人のいないアガサは使用人やメイドと遊んだり、家の庭園で空想上の友人との一人遊びをしたりして過ごし、内気な少女に育っていった。一方で、父の書斎で様々な書籍を読みふけって過ごし、様々な事象に対する幅広い知識を得て、教養を深めることが出来た。

また、ある事情により一家が短期間フランスに移住した時、礼儀作法を教える私学校に入って演劇や音楽を学んだ。16歳のときにはオペラ歌手を目指してパリ音楽学校に入学したが、すぐに退学した[10]。結局、母は最後まで正規の教育を受けることは許さなかったが、アガサ自身は自らが受けた教育について誇りを持っていたという。