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田中城のエピソード
田中城のエピソードとして有名なことに、駿府城で隠居生活を送っていた徳川家康が鷹狩りのために田中城を訪れていたが、元和2年(1616)年1月、御用商人茶屋四郎次郎から、上方で流行している鯛の天ぷらの話を聞き、その場で揚げさせて食べたところ、あまりにも美味しいので、つい食べ過ぎて腹を悪くしたことが原因で腹痛を起こし、体調を崩したまま同年4月に75歳で没したというのがある。
また、池波正太郎の鬼平犯科帳の長谷川平蔵の先祖が田中城の城主だったという逸話もある。
田中城の特徴
西益津小学校のある場所が本丸跡で、西益津中学校の場所に藩主の屋敷があり、現在は宅地化されているが、二ノ堀・三ノ堀・三日月堀・三ノ土塁などが部分的に残され、城の面影をとどめている。
田中城の構造上の特徴は、
- 平城
- 同心円形の縄張りである。そのため亀甲城又は、亀城と称された。
- 馬出曲輪(三日月堀)が6ケ所にある。
- 六間川の水を水運や城濠の増水用に利用した。
- 姥ヶ池の浄水を引き入れ城内に配管設備を施した。
ことなどがあげられる。
徳川時代の田中城
田中城が徳川の城となって後、家康の臣高力清長が城主となり、天正18年(1590)家康の関東移封とともに清長も武蔵岩槻城に転封となり、そのあと中村一氏の家老横田村詮の領するところとなった。
慶長5年(1600)の関ヶ原以降は、江戸時代には田中藩が置かれ、酒井・三枝・桜井松平・水野・藤井・松平・北条・西尾・酒井・土屋・太田・内藤・土岐氏と目まぐるしく城主が交代し、享保15年(1730)、上野沼田から本多正矩が4万石で入封、以後本多氏が6代続いて譜代大名12氏21名が城主となり明治に至った。
田中城下屋敷
江戸時代後期、田中藩主・本多家の庭園であった下屋敷は、城の南東隅にあたり、築山・泉水・茶室も設けられて、四季の草花や月見の名所として知られていました。庭園跡を史跡公園として整備をすすめ、田中城ゆかりの建築物(市指定有形文化財4件)も移築・復元し公開しています。