承継
軌跡

田中城の歴史

田中城は瀬戸川に沿った微高地上に位置しており、戦国時代には三ノ丸までだったが、江戸時代初頭に外曲輪(そとくるわ)が増設されたという。四重の堀に囲まれ、「亀城」「亀甲城」とも呼ばれる直径約600mの同心円形の縄張りは全国的にも類例がない。城内は、本丸や御殿(田中藩の政務をつかさどる中心的な建物)の置かれた二ノ丸を中心にして、周りには藩校(日知館)、役所、武家屋敷が取り囲むように配置されていた。さらに、四ノ堀とつながる六間川は水路としても利用され、姥ヶ池を水源として城内や侍屋敷には上水道がひかれていた。
 今から500年ほど前、この地の土豪・一色氏が今川氏の命をうけ居館を拡大して築城したのが始まりと伝えられ、今川時代には徳一色城(とくのいっしきじょう)と呼ばれていた。
 元亀元年(1570)正月、武田信玄は花沢城と共に徳之一色城を攻略した。信玄は徳之一色城が城の立地に適していることをみて、家臣・馬場美濃守信房に縄張を命じ、全く新しい城にして、武田流の馬出曲輪(うまだしくるわ)も築かれたので、名前も田中城と改称した。城が完成すると山県昌景を城主に命じ、さらに元亀3年(1572)には板垣信安が入城した。信玄は、大井川を境として、諏訪原城~田中城~小山城ラインの支城群によって浜松城の徳川家康に対して圧力をかけたのである。信玄の死後、武田勝頼が天正3年(1575)長篠・設楽ヶ原合戦で大敗すると、やがて天正6年(1578)からは田中城も家康の攻撃をまともに受けるようになり、遂に天正10年(1582)2月20日には、徳川軍の総攻撃を受けた。この時、田中城の城将は依田信蕃、三枝虎吉で、よく防いだが、武田一門の駿河江尻城主穴山信君(梅雪)が徳川方に寝返り、田中城は完全に孤立し、遂に3月1日開城した。
 武田方の守る田中城を徳川家康が攻め始めたのが天正3年(1575)、その後何度も攻撃しては失敗をくり返し、やっと開城させたのが天正10年(1582)だったというから、足かけ八年かかったことになる。田中城は難攻不落の城だったのである。三日月堀を配した武田流の築城法がその一因であったことも確かであるが、武田入城前の、今川時代からこの城には城としての優れた条件が備わっていたのではないかと思う。その理由として、この城の回りが湿地帯だったことが挙げられる。後の田中城と焼津港とを結ぶ水の道の一部としての運河、即ち六間川の水源は青池であり、田中城の上水道の水源は姥ヶ池である。これらはいずれも瀬戸川の伏流水で、かつてはこれらの湧水によって田中城の周囲には湿地帯が広く分布していたのである。湿地はいくさ人の足を奪うものである。平城・田中城は、その名のごとく、湿田に守られた城だったのだ。城に幾重もの堀をめぐらし、その外に湿田、そしてその外はまた瀬戸川が天然の堀をなしていたのである。