承継
この想いでサイトは、 中江 兆民 (なかえ ちょうみん) を承継するために作成されました。

享年54歳 、誕生日 1847年12月8日、命日 1901年12月13日
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墓地青山霊園 東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園1種イ1号24側
戒名:なし「遺骸は解剖に附する事、 葬儀は行わない事」(遺言)


関連リンク


  • 日本の思想家、政治家。本名は中江 篤介。自由民権運動の理論的指導者であり、第1回衆議院議員総選挙における当選者の一人。
  • フランスの啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介したことから東洋のルソーと評される。 
  • 「兆民」は本名ではなく号であり、「億兆の民」の意味


このメッセージは、 2023年12月7日に、鉄男藤原さんが投稿
友人と青山霊園に行った際にお参りさせていただきました。「葬式無用、戒名不用」の遺言で有名な方ですが、追憶の場があるのは良いとおもいました。

メッセージの投稿

 
メッセージ
このメッセージは、 2023年12月7日に、鉄男藤原さんが投稿
友人と青山霊園に行った際にお参りさせていただきました。「葬式無用、戒名不用」の遺言で有名な方ですが、追憶の場があるのは良いとおもいました。
大切な方の思いで

墓マイラー:カジポンさんの説明より 5-27-2023

エラキ人なると信じぜる
  • 21歳で明治維新を迎え、大久保利通に直訴して岩倉使節団のメンバーに加わり、3年間フランスへ留学する。 1874年(27歳)に帰国し東京で仏学塾を開く。 翌年、 東京外国語学校(東京外国語大学) 校長に就任するが教育方針をめぐり文部省と 対立して辞職。 続いて井上毅らとともに国憲案作成のための調査や翻訳を行う。 30代になると薩長の藩閥専制政治に反発、 官職から 離れた。フランスの影響で国会開設・憲法制定などを要求し、 自由民権運動の教祖的存在となる。
  • 1881年(34歳)、 自由民権運動の気運が盛り上がり、 西園寺公望らと創刊した 『東洋自由新聞』」 の主筆となり、人民の抵抗・革命権の主張、専制政府の批判などフランス流の自由民権論をといた。 自由民権運動は10年後の国会開設を約束する詔勅(しょうちょく)を 引き出す。
  • 1882 年(35歳)、『社会契約論』 の漢文訳『民約訳解』を刊行。ルソーの社会契約論・人民主権論などを紹介し、 「東洋のルソー」とよばれ政治を目指す青年層にも大きな影響を与えた。 同年、 自由党の旗揚げに関わる。
  • 兆民は40歳で記した 『三酔人経綸問答』で“非武装国家" "小国主義” を提唱、 危険分子と見なされ保安条例で東京を追放された。 その後も、部落差別に抗議する為に自ら本籍を被差別部落に移して部落民を自称、 普通選挙論など民主主義思想を主張し続けた。 1889年 には大日本帝国憲法発布の恩赦を得て追放処分が解除され、 1890年 (43歳) 第1回総選挙で衆議院議員に出馬、 大阪4区を1位で 当選。だが、予算問題で政界に失望して辞職した。 晩年は北海道・小樽へ移り実業家として活躍した。1901年に喉頭癌のため 54歳で 病没。明治の世に「自由はもらうべき品にあらず」と民主主義を主張した東洋のルソー。 「秋水(しゅうすい)」とも名乗り、弟子の幸徳秋節要る12618設水に譲渡している。
  • 遺言は2つのみで「遺骸は解剖に附する事、 葬儀は行わない事」。 兆民は葬式をせず荼毘にふすよう求めていたが、親戚友人は代わりに 宗教上の儀礼のない「告別式」を行なうことを提案、これが日本初の告別式となった。 青山墓地で式が行なわれ、約1千名が参列。正面 に棺を安置し、 板垣退介の弔辞、 大石正己 (まさみ)の演説と続き、 火葬場で荼毘にふされた。
※名言「自然に還れ」ほか「私たちは、いわば二回この世に生まれる。 一回目は存在するために、二回目は生きるために「生きるとは呼吸することではない。 行動することだ」 「一緒に泣くことほど、人の心を結びつけるものはない」(「学問とはわずかな時の間に、 何百年もの人類の経験を受け取ることである」★「判断力はゆっくりと歩いてくるが、 偏見は群れをなして走ってくる」
お墓は細くて地味な石柱。 「兆民中江先生癧骨(えいこつ)之標」と刻む。“極”は“埋葬する”という意味。背面には「遺言墓」とあり、葬儀を拒否したので骨を埋めた場所とした。 他界時は遺言に従い墓を建てず、没後十余年を経て門人が建てたようだ。政治家や 軍人の巨大墓が多い青山にあって実に質素。 そこがいい。

中江兆民の功績

功績1「フランス流の自由民権論を唱え、自由民権運動の主導者に」
兆民は幼少期からフランス語を学び、フランス外交団の通訳として働いていた経験もあるため、フランスの思想や文化に親しみがありました。1874年に始まり、1880年代に激化した自由民権運動ではフランス流の自由民権論を唱え、言論により自由民権運動の主導者として活動します。

フランス流の自由民権論とは政治が全ての人間の自由と平等を保障することを是とし、党派政治や政治家による抑圧を排した「共和国」の成立を促す言論のことです。明治政府は天皇を頂点に置き、人民を直接統治するという考えであったため、兆民はこれを批判し、「東洋自由新聞」にて自らの思想を普及して社会を動かすことに務めたのでした。

功績2「ルソーの『社会契約論』を漢語訳」

兆民の思想はジャン=ジャック・ルソーの社会契約論に大きく影響を受けており、1882年には社会契約論の漢語訳である「民約訳解」を刊行します。これが民衆に広まるとさらに自由民権運動の動きを活発にさせました。

兆民は社会契約論の第2巻第6章までを翻訳し、自分なりの注解も付け加えたため、その方面に知識のない人でも読みやすいような構成で執筆されました。この翻訳により、兆民は「東洋のルソー」と呼ばれるようになるのです。


功績3「第一回衆議院議員選挙トップ当選」
1889年に大日本帝国憲法が発布されると、自由民権派もこの内容を高く評価したため、自由民権運動は次第に収束していきます。翌1890年には第一回衆議院議員総選挙が開かれ、兆民も大阪4区から出馬することになりました。

穢多の生活の様子
大阪4区はかつて賤民や穢多など、身分差別を受けていた人が多く住んでいる被差別部落であり、兆民はわざわざ本籍をその地に移して選挙に臨みました。その際の宣伝文句が「余は社会の最下層のさらにその下層におる種族にして、昔日公らの穢多と呼びならわしたる人物なり」というもので、これが被差別部落の住民からの支持を集めるきっかけとなり、選挙でトップ当選を果たすことになるのです。

告別式の始まりを作った人

 明治27年、8月28日、東京朝日新聞に〈生前凡骨、逝後神仏に帰すべき霊にあらず、因て神仏葬事を要せず、直に火葬場に於て焼き棄て、骨灰を遺さず、墓地を設けず候に付、旧知諸君の来葬を謹で謝絶す〉との遺言が書かれた死亡広告が載せられている。


  • 中江兆民は、喉頭癌で余命宣告を受けた際に、無宗教者であるとして、葬儀を行わずにすぐに火葬するように、また医学の発展のために解剖するよう、遺言しました。
  • そして、告別式というのは、その文字が表している通り、(故人に)別れを告げるための儀式が行われました。
  • 告別式の後は青山霊園に埋葬されました。ただ、この時には石碑は立てられず、現在、中江兆民の墓とされているのは、1915年に友人や門下生らが建てた、「兆民中江先生瘞骨之標」の碑といわれています。
  • 西郷隆盛流の「命も要らぬ、名も要らぬ、官位も、金も要らぬ」という無欲に徹した中江兆民、明治の革命思想の本流を形成している
皮肉にも、中江兆民の告別式が無宗教のお別れであったのに対し、焼香台を設けて参列者がお焼香を行うなど、葬儀と告別式というように行事が増えていき、現在の葬儀・告別式というかたちに変化していきます。

※俳優の神山繁さんが、実業家・白洲次郎氏も「葬式無用、戒名不用」の遺言としても有名です。

想いで

名言集

墓マイラー趣味クラブさんが2023年5月24日に投稿
  • 「思想は種子なり、脳髄は田地なり」
  • 「自由はとるべきものなり、もらうべき品にあらず。」
  • 総ての病根此(日本に哲学がないこと)に在り
  • 「君主も人間、われわれも人間、同じ人間でありながら、自分の特権によって生きることができず、ひとのおかげで初めて生きるというのは、実に恥ずかしいことではないでしょうか。」
  • 「民主の主の字を解剖すれば、王の頭に釘を打つ。」
  • 平民主義というのはまだ階級に未練がある。余はさらに下がって『新平民主義』である
  • (就任三日目に国会に出した辞職届)アルコール中毒のため、評決の議に加われかね候
(ガンで余命が一年半だと宣告されて)ほう、そんなに生きられますか。こりゃ寿命の豊作だ ※晩年に癌の宣告をされてからは病床で「一年有半」という随筆集を執筆し、大ベストセラーを記録しました。その書物は兆民の思想を存分に反映しているということで現代でも高く評価されているのです。